Asako Sakamoto

1998年にメキシコで日本語教師としてスタート、その後、アメリカと日本で、主に日系人を対象に日本語教育に関わる。大学院では、在日日系南米人に関わる諸問題を通して、日本の血統主義について調査、研究。2014〜2017年、JICA日系社会シニアボランティアとしてブラジルへ赴任。現在は、日本国内で日本語教師として活動している。

(2017年10月 更新)

identity ja

アマゾンの日系社会

第10回 ふるさと

兎追いしかの山 小鮒釣りしかの川
夢は今もめぐりて 忘れがたき故郷

如何にいます父母 恙なしや友がき
雨に風につけても 思い出づる故郷

志をはたして いつの日にか帰らん
山は青き故郷 水は清き故郷

― 唱歌『ふるさと』

任期最後の年、3度目のトメアスー敬老会。トメアスー文化農業振興協会とアマゾニア日伯援護協会が中心となって行われ、多くの家族が一同に会して、地元のおもに日系一世である高齢者の健康と長寿を願う。ベレン領事事務所所長や振興協会会長などが挨拶をされ、日本語学校の生徒たちの歌、女性グループによるコーラスや日本舞踊など、いろいろな出し物が披露される。そして、トメアスー婦人会の手作り弁当も振る舞われる。

3度目にして初めて会を終了するまで見届けることができた。最後に参加者全員で記念写真を撮り、そのあと毎年恒例の「ふるさと」を合唱。全員で手をつないで円になって歌う。事前の打ち合わせなどはないのに、音楽が流れ始めると、全員が自然に輪になって隣の人の手を取る。私たちボランティアもいつの間にかその中にいた。幼いころから何度も歌い、慣れ親しんできた歌である。歌詞を見なくても言葉は出てくる。しかし、このときほど詞の意味を強く感じたことがあっただろうか。遠くを見つめて歌うみなさんの視線の先にあるもの。一つひとつの言葉がそこから紡ぎ出されるかのように感じられ、琴線に触れた。

「ふるさと」は、1914年に、高野辰之作詞、岡野貞一作曲による小学校唱歌として6年生の教科書に載せられて以降、日本全国多くの学校で歌われてきた。日本で小中高校時代を過ごした方なら、誰もが知っていると言ってもいいのではないだろうか。生まれ育った場所の風景をこの詞に重ねながら意味を感じ取り歌うことによって、育ててくれた親への感謝の念や故郷を愛する気持ちなどを育むという教育目的があるのだろう。私が育った町はこの詞にあるようなのどかな風景とは異なり、車と人が行き交う都市であるが、それでもこの歌を聞くと、今でも不思議とその町が思い出され幼少期のころが頭に浮かぶ。

しかし、敬老会で日本から移住された方たちが歌う姿は、私のそれとは異なる。ブラジルへ移住されてから、筆舌に尽くしがたい苦労をされてきたであろう。まだヨチヨチ歩きのころに家族に連れられて来た方、電気も水もない暮らしの中で辛苦に絶えざるを得なかった方、生きていくのが精一杯で学校には通えないまま大きくなった方、戦中の排日感情のあるブラジル社会で生きなければならなかった方、いろいろな経験をされてきた一世の方たちの心情を思うと、胸が熱くなる。

歌のあと、司会をされていた十字路アマゾニア病院事務局長の松崎康昭さんに感想を伝えると、「僕は7歳のときに来たからこっちで子ども時代を過ごしている。それでもやっぱり、『ふるさと』を歌うとかすかに記憶に残っている日本を思い出すし、なんとも言えない気持ちになるんだよ。こっちの生活のほうが長くなっても、みんなにとっては日本がふるさとなんだよ」と、とても優しい表情で話してくださった。私が歌う「ふるさと」とは違う「ふるさと」がそこにはあった。

「日本から来た」と言うとみなさん親切にしてくださり、昔話をいろいろと聞かせていただける。それは、私を通して日本を見ておられるからかもしれない。「日本」は地球の反対側にあるが、いつもみなさんの心の中にある「ふるさと」を、私との会話の中で少しでも感じてくださっていたらうれしい。おこがましいかもしれないが、そのお手伝いをすること、それもボランティアの役割なのかもしれないと思った。

 

Read more

community ja

アマゾンの日系社会

第9回 高拓生の熱き思いはいつまでも

JICAボランティアの任務が終わった。帰国前は数か月間、活動終了に向けて追い込みをかけるようにあちらこちらの学校を巡回した。帰国してからは諸々の手続きやら就職活動やらに追われ、3か月が過ぎた今、ようやく落ち着きを取り戻した。最後に寄稿してからだいぶん時間がたったが、任期中、「書きたい」とずっと思っていたことがある。「アマゾンの日系社会」と題する本コラム、それを語る上で忘れてはならないことである。幸い、任期後も執筆を続けることを許していただけたので、今回はぜひそのテーマについてお話したい。

「安井さん、『宇宙』はどうですか。ご主人もお喜びになるんじゃないですか。」

「あら!それ、いいわ!それにします!」

満面の笑顔で半紙に向かわれる姿は、とても微笑ましかった。高拓生第4回生安井宇宙さんの妻信子さん(83歳)は、私が講師をさせていただいていた書道教室の生徒さん。文化祭で展示する作品の字を何にするか決めるときに、私のアイディアを採用してくださった。普段ご主人のことはあまりお話にならないが、このときの様子から、ご主人への愛情の深さが窺えた。

「高拓生」、任期中に何度も聞いた言葉だ。「高拓」とは「国士舘高等拓殖学校(後に『日本高等拓殖学校』と改名)」で、アマゾンの開拓を目的に1年間日本で学んだ後に移住した学生を「高拓生」と呼ぶ。学校は、1930年に当時の衆議院議員だった上塚司によって設立された。彼は、1908年に笠戸丸でブラジルに渡った第一回移民とともに渡伯した、皇国殖民会社代理人上塚周平の甥である。上塚周平は、日本人のブラジル入植の道を切り開いた「ブラジル移民の父」こと水野龍の右腕と言われている。

アマゾン開拓の指導者になるべく、上塚司の指導のもとに学んだ最初の卒業生47名は、1931年6月に、アマゾナス州パリンチンス市近くにあるヴィラ・アマゾニアに到着した。主な活動はジュート栽培だった。ブラジルはそのころのコーヒーの世界シェアの80〜90%を占めていたが、豆を輸出するときに使用する麻袋の原料であるジュートは100%インドからの輸入に頼っていた。次の年からも毎年卒業生は送られ、1937年までに248名が入植し、活動も順調に進んだ。高拓生によるジュート栽培は、ブラジルのアマゾンにおいて大きな成果をもたらした。

中流家庭以上の出身子弟が多く優秀な人材が集まっていたようだが、虫が大量発生したり植物の葉で覆ったような所で暮らしたりするアマゾン生活の辛苦に耐えられず、帰国したりサンパウロへ移ったりする人もいたと言う。しかし、たどり着いたアマゾンにずっと住み続けた人も少なくない。結婚して家庭を築き、さらなる成功を収めた人もいる。

昨年、高拓生入植85周年を記念して、任地パラー州ベレン市で式典が行われた。パラー高拓会の小野重善会長をはじめ関係者約50名が参加、神前で追悼の意を捧げて故人を偲んだ。現在、生存する方はいらっしゃらないが、第2回生小林増美さんの妻淳子さん(98歳)や前述した安井信子さんなど、高拓生について詳しくご存知の方は、歴史を語り継ぐ上で貴重な存在だろう。また、高拓生の遺族であることに今なお誇りを持っておられることを、間近に見て感じることができた。

同じ席に数人の孫世代がおられたことも、高拓生の思いを後世に受け継ぎ未来へつなげていこうとする遺族の方々の気持ちの表れであるように感じられた。その中の一人で、第4回生山崎たろうさんの孫であり、ベレン日本語学校校長の山崎ゆうじさん(27歳)は、「僕は日本語がわからないが、自分の中に日本人の魂が宿っていることを誇りに思う。今回、校長をすることになって少し戸惑っているところはあるが、これは祖父がつなげてくれた縁。一生懸命がんばりたい。」と、熱く語ってくださった。お会いするといつも学校のことを話してこられ、熱心に取り組まれる真面目な方だ。夢と希望を胸にアマゾンへ渡り、汗にまみれて荒地を切り開くエネルギーでいっぱいだった青年は、自分の血を引いた孫の成長を、きっと喜んでおられるに違いない。彼らの思いがずっと伝え継がれていくことを心から願ってやまない。

 

Read more

community ja

アマゾンの日系社会

第8回 トメアスーの農業

「ここにアマゾン移民が最初に着いたんですよ」

CAMTA(トメアス総合農業協同組合)元理事長の坂口渡フランシスコさんが教えてくださったのは、アマゾン川支流にある小さな川岸。ここに43家族189人が到着したのは、1929年のこと。彼らがはじめにとりかかったのはカカオの生産。アマゾン開拓のために、日本政府の指示を受けた鐘淵紡績株式会社が出資して設立した南米拓殖株式会社とともに取り組んだ。1931年にはアカラ野菜組合が結成され、野菜や米作りも手がけるようになったが、熱帯病患者の増加と熱帯農法の知識不足によるカカオ栽培の失敗で、南米拓殖株式会社は撤退せざるを得なくなった。

植民地を自ら運営することになった入植者は、組合をアカラ産業組合に改組。自分たちの生活を支えるべく農業に勤しんだが、その後、マラリアが蔓延したことで多くの人がトメアスーを離れることとなった。

戦時中も戦禍が組合事業にまで及び苦しい状況が続いたが、終戦後、トメアスーの歴史を語る上で忘れてはならない大きな出来事があった。1930年代にシンガポールより持ち込まれた胡椒が、莫大な富を生んだのである。「黒いダイヤ」は多くの入植者の生活を潤わせ、「胡椒御殿」が建ち並んだと言う。

しかし繁栄は長くは続かなかった。1960年代に入ると、病害によって胡椒は壊滅的な打撃を受け、再び多くの人が新たな栽培地を求めて移転することになる。

そんなときに、胡椒と他のものとの混植で病原菌のリスクが避けられることを突き止めたのが、1957年に移住した東京農業大学卒業生である故坂口陞(のぼる)さん、冒頭で紹介した渡さんのお父様である。さまざまな作物を混植して暮らしていたアマゾン先住民の生活をヒントにし、カカオと胡椒の混植を思いついた。これがアグロフォレストリーの始まりである。日陰を好むカカオは胡椒の木の陰でよく育つようになり、アサイー、アセロラ、パッションフルーツなど次第に栽培作物を増やしていった。こうして自然に近い環境を作ることで病原菌を防いだ。収穫時期の違う作物を混栽することで、毎年安定した収入が得られるようにもなった。

1990年代初めごろ、CAMTAの現理事長である小長野道則さんは、単一栽培の農家の生活苦を改善しようと各家を回ってこの技法を伝授。そのおかげで多くの人々の生活が安定した。生活苦が原因で犯罪に手を染める人も減り、治安も回復した。

広大な農地を案内していただきながら、トメアスーの農業について教えていただいた後は、坂口さんのお宅で休憩。

2014年、坂口さんは地元のアマゾニア連邦農牧大学(UFRA)に土地3240㎡を無料で提供した。「気でも狂ったのか」と周囲の人から言われたそうだが、「たくさんの若い人たちが農業を学ぶことができるよう手助けしたいと思った」そうだ。

「我々、日系人だけが潤ってもダメ。地元のブラジル人の生活のことも考えないと、社会全体が良くならない。父から受け継いだ技法をどんどん広めていって、トメアスー全体の農業が盛んになるようにしたい。それが私の役目だと思っている」

ゆっくりお話になる坂口さんの言葉は重く、心に響く。アマゾンに夢を託してやってきた青年の意志はしっかりと息子さんに継承されている。お父様もきっとお喜びになっておられることだろう。

 

Read more

community ja

アマゾンの日系社会

第7回 アメリカ人青年、74年の歳月を経て再びトメアスーへ

「一昨日、すごいことがあったんです!戦時中にトメアスーへ来たアメリカ人が、野球ボールを持って来てくれたんです!」・・・そう興奮しながら話すのはパラー州のトメアスー文化協会の乙幡敬一会長。「野球ボール?」と聞くと、「映画になるような、感動的な話」とニコニコしながら話し始めた。

1942年、サンパウロの大学に留学していたアメリカ人ジョルダン・ヤングさんは、第2次世界大戦が始まったことを知り、帰国手続きを始めていた。船便の順番待ちをしていたときに、大使館から依頼された、ロックフェラー財団によるブラジルの労働条件の調査の仕事でいくつかの地方を回り、最後にアマゾン地方の調査のためトメアスー日本人入植地へ向かった。

敵国である日本からすでに多くの人が移住していた日本人入植地へ行くのは、とても怖かったと言う。そして、硬い表情をして待ち構えていた日本人の中には、小銃を持っている人もいたようで、ジョルダンさんの緊張はさらに高まったそうだ。

しかし、訪問の目的を知った日本人たちは調査に非常に協力的で、日が経つごとに緊張も和らいでいった。そして、両国で盛んなスポーツである野球が共通の話題となり、お互いの距離はさらに近づいていった。

数日間の滞在の後、サンパウロへ引き返すことになった彼に、ある日本人が「ここには野球ボールが少ししかない。なんとか調達してもらえないだろうか」と依頼。ジョルダンさんは快く承諾し、1945年に帰国の途についた。

あれから74年、日々の生活に追われ約束が果たせないままだったが、このことを一度も忘れたことはなかったと言うジョルダンさん。今回、ブラジルの大学に留学している孫娘と、サンパウロで僧侶をしている甥とともにトメアスーへもう一度やって来て、長年の思いをようやく果たすことができた。

95歳になるジョルダンさんは、「ここまで来るのは身体的に大変ではあったが、どうしても約束を守りたかった」とのこと、第1回アマゾン移民の山田元(はじめ)さんにボールを手渡し、感慨無量の面持ちだった。

これを記念して、お寺では記念法要が催され、関係者一同、今回の再会とボール寄贈の喜び、そして感謝の気持ちをジョルダンさんに伝えたという。

「アメリカ人とトメアスーの日本人の交流が戦争中にあったなんて、本当に驚いた。そして、山田さんを含め誰一人知らなかったことを、ジョルダンさんが覚えてくれていたことはとてもうれしい。これはトメアスー日本人移住史に残る重要なこと。決して忘れてはいけないし、後世に語り継いでいかなければいけない」と言う乙幡会長。

国と国との争いの中で人と人はつながりを持ち、74年という年月を経てもそれが途切れることはなかった。

トメアスーの地に届けられた白い野球ボールが、その証と言えるだろう。だれも知らなかった歴史の一片は、ボールとともにトメアスーの日本人たちの心に残っていくことだろう。

【参考記事】

『サンパウロ新聞』2016年6月15日(堤剛太ベレン支局長)

 

Read more

education ja

アマゾンの日系社会

第6回 カスタニャール日本語学校 歴史をたどる

鍵のかかった扉を開けてもらい中に入ると、少しひんやりとしている。電気は切れているが、外からの日差しで充分に明るい。まず正面に校歌と校訓。右側の壁には初代校長信重時晴先生の肖像画。左には職員室。埃はかぶっているが、積み上げられた教材はどれも今でも使えそうなものばかり。六つほど教室があり、一つは木の床でできていて歩くと所々でミシッという音がする。いろいろな機材もそのまま残されており、そこにいると、子どもたちの元気な声が今にも聞こえてきそうだ。

「昔の校舎に教材がたくさんあるから、一度、見に来てください」と、元校長の山瀬楢雄先生に言っていただき実現した旧校舎見学。どんな先生方がおられたか、何人ぐらい生徒がいたか、どんな活動をしていたかなど様々なことを山瀬先生からお聞きし、活発に学校を運営されていたころの様子を窺い知ることができた。

1923年にパラー州知事となったデイオニジオ・ベンテス氏が、当時の駐ブラジル日本大使田付七太氏に開拓目的の日本移民受け入れを持ちかけ、田付氏がこれを承諾したことを機に、アマゾンへの日本人入植の準備が開始された。入植者は徐々に増加したが、終戦時にカスタニャールに残っていたのは2家族のみ。しかし、1955年に戦後初の移住がスタートしてからは、また少しずつ増えていった。

ベレン市に汎アマゾニア日伯協会が1958年に設立された後、その支部として郊外にカスタニャール日伯文化協会が誕生したのは1966年。わずか16名だった会員は、1974年には104名になった。協会設立当初は運動会のみを行っていたが、次第に、各種講習会や農業物品評会などの事業も増え、その中の一つとして始まったのが日本語学校の運営であった。

1970年、カスタニャール日伯文化協会の理事だった信重時春氏は、コロニア子弟のために日本語学校を開設。教師2名、生徒34名でスタートした学校は、年々大きくなり、1974年には分校1校が、翌年にはさらにもう1校が開校され、生徒数も100人を超えた。運営母体も日伯文化協会から独自の委員会に移り、教育資材の確保や教室増設など活発な活動が行われた。一世の父兄が、自分達の子どもの日本語能力向上のために始めた日本語教育だが、1977年になると、生徒だった二世が助手として学校運営に関わるようになった。いずれは一世教師が少なくなり、二世が中心になって教えていくことを見据えて、いろいろな教師研修会にも積極的に参加し始めた。

1980年代に入ると運営状況はさらに活発になり、経済的にも余裕ができ、教師への謝礼も支払われるようになり、日本語能力試験の合格率も90%以上と、活動実績も数字でしっかり残した。日系人であっても、ブラジルで生まれたのだから、ブラジル社会で立派に生きていってくれることを父兄は願っていたが、日本人であるからには日本語を覚えてほしいとも当然思っていた。しかし、それを強制できるものでもなく、子ども達自ら日本語を含めた日本文化に興味を持ってくれるよう、授業だけでなく、学習発表会のような行事もいろいろ催し、少しでも子ども達が楽しく学べるようにしたとのこと。日系社会の今後を背負って立っていく二世、三世を育てていきたいと強く思っていたそうだ。

1980年代後半から2000年初頭に起こった日本への出稼ぎブームで、北伯全体の日本語学習者が減少したが、カスタニャールも例外ではなかった。それでも、子ども達が学校へ来る限りは応えていきたいという思いで続けておられたようだが、諸事情により一時は閉校せざるを得なくなった。しかし、学校運営が最も活発だったころに学んでいた二世が、自分たちの子どもに日本語を学ばせたいということで数年前に再開され、今は、隣町の教師2名とJICAボランティア1名で約20名の生徒に教えている。

私の配属先、北伯日本語普及センターの理事長である山瀬先生が教鞭を取っておられたこの学校。それだけでなく、私が日本で教えていた生徒さんの中に信重初代校長先生のお孫さんがおられたこと、JICAブラジル職員のお一人の母校であることも、この学校が私にとって特別な存在として感じられる理由だ。他の学校と同様に長い歴史の中で日系社会と強くつながってきており、北伯の重要な学校である。これからも、大切に、丁寧に、支援をしていきたいと思う。

【参考図書】

『日伯文化協会20年史』1986年(カスタニャール日伯文化協会)

『開拓50年の歩み』1975年(汎アマゾニア日伯協会カスタニャール支部)

 

Read more

Series this author contributes to