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日系被爆者たちの声、心の傷跡【第2部】:核兵器廃絶訴え、平和への思い次の世代へ

原爆犠牲者の追悼法要で自らの被爆体験を語る日系3世のハワード蠣田さん (写真:吉田純子)

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広島と長崎、原爆犠牲者の追悼法要

「それは美しい夏の日の朝でした。74年前の8月6日、当時7歳だった私は2歳年上の兄とともに、爆心地から約0.6マイル(およそ1キロ)の場所で被爆しました」。小東京の高野山別院で4日に行われた記念法要にゲストスピーカーとして出席していた日系3世のハワード蠣田(かきた)さん(81)は、自らの被爆体験を当地の人々に伝える。核兵器廃絶を訴え、平和への思いを次の世代に語り継ぐ蠣田さんの被爆体験を聞いた。

一家、日米で離ればなれに。両親はポストン強制収容所へ

蠣田さんは1938年、ボイルハイツで生まれた。1940年のはじめ、広島にいた父方の祖父が病気になり、2歳だった蠣田さんと家族は日本へと向かった。当時蠣田さんの母は妊娠8カ月。母はその後日本で出産し、弟が生まれた。

日本到着後、祖父の健康状態は改善したが、再会から6カ月後、一家は再びアメリカに戻らなければならなくなった。帰国が迫るにつれ祖父の健康状態は再び悪化。蠣田さんの両親は蠣田さんと兄に祖父の看病を託し、生後まもない弟を連れてアメリカへと戻った。

蠣田さんの両親は戦時中、アリゾナ州ポストンの強制収容所に収容され、蠣田さんと兄は広島で暮らし、一家は日米で離ればなれとなった。


蠣田さんの被爆体験

1945年8月6日。その日は美しい夏の青空が広がる朝だった。学校に行く準備をしていた蠣田さんだったが米軍機の接近により休校になると、すぐさま遊び服に着替えた。しかし間もなくして空襲警報が鳴り響いた。午前8時頃のことだった。

蠣田さんと兄が急いで屋根によじ登ると、市内に向かって飛行するB29が目に飛び込んできた。

兄弟はすぐさま屋根から降り、兄は門のところへ、祖母は家の中へ、蠣田さんは風呂場がある建物内に逃げた。そして午前8時15分、広島に原爆が投下された。

原爆投下直後、蠣田さんは気を失った。光を見ることも、爆発音を聞くこともなかったという。

どのくらい意識を失っていたかは分からないが、意識を取り戻した時には炎と煙が立ちこめる中、倒壊した風呂場に埋もれていた。深刻な怪我はなく、自力で這い上がることができた。

兄は額に軽い火傷を負っていたが無事だった。台所にいた祖母は、割れた窓ガラスの破片が体中に突き刺さり、倒壊した建物の下敷きになっていた。祖父や近所の男性が祖母を見つけ出し救助。体中血だらけの祖母だったが、命だけは助かった。

「祖父母と兄弟が生き残っていたことは奇跡に近かった」と蠣田さんは振り返る。

同じ時、炎が倒壊した家屋を飲み込み、瞬く間に火の手は街中に広がっていた。祖母と兄弟は市外に避難し、祖父は消火活動にあたった。

一方、同じく広島にいた母方の祖父母は原爆で亡くなった。母方の祖父母は農家で、祖母は商品を広島市内に運んでいた際に爆死した。爆心地から近かったため遺体はなかった。祖父は重傷を負いながらも自宅までたどり着いたが数日後に亡くなった。

道に転がる死体、抜け落ちた髪

被爆後、髪がすべて抜け落ちた蠣田さん(右から)と祖父と兄。祖父はその後1947年にがんで亡くなった(写真:蠣田さん提供)

街から山の方へ避難する途中、蠣田さんは見るも恐ろしい光景を目にする。「ひどい火傷を負い皮膚が体から剥がれ落ちている人々、体中血まみれの人、『水をくれ』と助けを求める人々など。道にはそこかしこに死体が転がり、それは見るも無惨な光景でした。当時のことは目と心に焼きつき、今も忘れることができません」

蠣田さんは広島市から10マイル(約16キロ)北方の可部町(現在は広島市に編入)にあった親戚の家に避難し、その地で終戦を迎えた。

原爆で広島の街全体は破壊され、跡形もなくなった。残っていたのは建物のコンクリートと鉄の枠組みの一部だけ。「街の至るところに灰になった死体が転がり、市内を流れる川には腐敗した死体が浮かび異臭を放っていました」

数週間後、蠣田さんの体にも異変が訪れる。「髪の毛がすべて抜け落ち、ひどい下痢症状に苦しみました。幸いにも、髪はまたはえ始めたが、父方の祖父はその後がんになり、回復することなく47年に亡くなりました」

蘇る当時の記憶、核のない世界へ

一方、アメリカに戻っていた蠣田さんの両親はアリゾナ州のポストン強制収容所に収容されていた。当時の新聞が原爆投下の場所の詳細を記しており、両親は蠣田さん兄弟が爆心地からほど近い場所にいたことを知る。絶望の淵に陥っていたが、かすかな希望を胸に、さまざまな機関に2人の安否情報を問い合わせ行方を探していたという。すると数カ月後、赤十字が蠣田さん兄弟を見つけ出し、両親に2人の生存が伝えられた。

終戦を迎えると、両親と弟はロサンゼルスに移り、蠣田さん兄弟も1948年にアメリカへと戻った。こうして再び家族がそろい新たな地で生活を始めた。

帰国した蠣田さんだったが、原爆を投下したアメリカに対し怒りはなかったという。「シカタガナイ―」。蠣田さんはこう一言つぶやいた。

しかし、蠣田さんの苦しみはその後も続いた。「母によると、頻繁に悪夢にうなされていたらしいのです。またあの時見た光景から、血を連想させるレアの牛肉やミートソース・パスタなど赤色の食べ物が食べられなくなっていました」

克服できたのは10年が経過した後。81歳になった今も当時の光景は鮮明に蘇る。幼い少年にはあまりに辛く悲惨な体験だった。

「現在の核兵器は広島と長崎に投下された原爆と比較すると格段に威力が増している。世界を破滅させるだけの力はあるだろう。こうした核兵器を保有し、使用しようとしている国を私は理解できない」と力を込める。

「今年は原爆投下から74年を迎えた。核兵器は恐ろしい。日本は現在でも世界で唯一の被爆国。私はその被爆者のひとりとして、核兵器を廃絶すべきであると人々に訴えたい」

忘れようにも忘れられない被爆者たちの8月6日。世界で初めて核兵器が使用された日―。高齢化が進む中、被爆者たちは今も自身の体験を語り続け、同じ過ちが繰り返されないよう、平和への思いを胸に核兵器廃絶を訴える。

追悼法要の会場に展示された広島と長崎の原爆投下直後の写真 (写真:吉田純子)

 

*本稿は、「羅府新報」(2019年8月16日)からの転載です。

 

© 2019 Junko Yoshida / The Rafu Shimpo

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