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書評 新訳『ノーノー・ボーイ』ジョン・オカダ著、川井龍介訳

小説家としてはもちろん、翻訳家としても知られる村上春樹の持論は「翻訳には賞味期限があり、どんな名訳といえども時々アップデートする必要がある」というもの。数十年前に日本語訳が出版された『キャッチャー・イン・ザ・ライ』『ティファニーで朝食を』など、いまだ人気のある名著の「新訳」を数多く手がけている。

翻訳には賞味期限があり、時々アップデートが必要、というのは、例えば作品に登場する「若者言葉」を訳すとき、当時はまだ日本になじみのなかったモノの日本語訳を比較してみれば、すぐに納得できる。どんなに名作でも、「あいつ」のことを意味する「奴さん」なんていう、もはや誰も使わない言い回しが出てきた途端、それは「古典文学」として読まれ、現代文学の棚からは外されてしまう。また、作品で描かれる世界はその当時のまま変わることはないが、受け手であるわたしたちは、常に変化する世界を生きている。その時代のギャップを、時に翻訳が橋渡しをする役割を担うことで、ふたたび新鮮な味わいがよみがえることもある。村上春樹のいう「賞味期限」にはその二つの意味があるのではないかと思う。

『ノーノー・ボーイ』は日系アメリカ人二世、ジョン オカダが1957年に発表し、唯一残した小説で、物語は「1941年 パールハーバー」からはじまる。

「日本の爆弾がパールハーバーに落ちたのは、1941年12月7日のことだった。この瞬間からアメリカ合衆国の日本人は、生まれつきの黄色い肌と吊り上がった目…よく見れば決して吊り上がっているわけでもないけれど…のためにほかのアメリカ人とは別の種類の動物になってしまった。」

冒頭から作品に引き込まれ、これが1957年に書かれ、一度は忘れられかけた作品である、ということは頭の中から消えていく。

パールハーバーの日を境に、“祖国”日本とアメリカの間で引き裂かれ、徴兵を拒否したことで家族とすら理解し合えず、自分のアイデンティティがどこにあるのか悩みさまよう主人公イチロー。それから75年後の2016年11月、ドナルド・トランプの大統領当選を境に、「自分はアメリカ人とは別の種類の人間にされてしまうのでは」と不安をおぼえる「イチロー」が、2017年のアメリカにもいるはずである。

「グローバル」「ボーダーレス」時代と言われ、自由にどの国境でも行き来でき、アメリカにはアメリカン・ドリームがある、そう教えられたはずが、突然「オレたちの国から出て行け」「国に帰れ」と言われ始めた現代の移民二世、三世たち。自分はアメリカ人ではなかったのか?ここが「オレの国」だと思っていた自分に、帰る国なんてあるのか?自分の居場所がない、「あいつら」に職を、居場所を奪われ続けてきた、と思っている「アメリカ人」もいる。

『ノーノー・ボーイ』で描かれる「ジャップ」たちへあからさまに向けられる憎しみ、「アメリカ人」たちが抱える不安が背中合わせの世界。それは、2017年のアメリカであり、20××年の日本の世界でもあるかもしれない。時代の変化にも後押しされ、アップデートされた『ノーノー・ボーイ』は現代文学としてよみがえる。また、「ジョン・オカダと物語の背景」として書かれた訳者のあとがきは、この小説をめぐる短いノンフィクションとしても読みごたえがある。

 

© 2017 Yoko Yuhara

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