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来日就学生物語 ~マイグレーション研究会メンバーによる移民研究~

第9回 ある台湾人女性の日本留学体験 -許秋槎のライフヒストリー-

はじめに  

1920年代から30年代にかけて、日本の統治下であった台湾から多くの若者が日本本土に留学した。いわゆる内地留学である。専門分野は多岐にわたっているが、特に実業と医学関係が多かった。1930年代後半以降には、男子だけではなく女子の留学生も増加する。女子を含む台湾人の日本留学の隆盛の背景には、日本統治下において男女ともに教育水準の向上によって進学熱が高まったものの、台湾での高等教育の限界があったことがあげられる。また、日本統治下で日本の言葉や風習にすでに慣れ親しんでいたこと、植民地という文化的周辺に住む人々の、文化的中心である宗主国へのあこがれが存在していたことも台湾人の日本留学を後押しする要因であったといえる。

本稿では、1930年代後半、日本へ留学したある台湾人女性のライフヒストリーを通して、日本留学体験とその影響について考えてみたい。

1. 来日するまで ―生い立ちから日本留学の経緯― 

許秋槎(きょ・しゅうさ)は1921年9月17日、台湾の彰化郡和美鎮で、医師の父、許五頂と母、王冰の三女として生まれた。父母とも、日本統治期以前に中国大陸の福建省から台湾に渡り、裕福な家庭の出身である。医師である父は地元の人々に優しく、家庭でも男女の差別なく子どもの教育には熱心であった。そんな父の姿を見ていた秋槎は、幼い頃から医師になって父の片腕となりたいと考えていた。

当時、秋槎のような台湾人の上層階級家庭では、畳の家に住み、和服を着て日本語を話すという日本の生活様式が行われていた。日本統治下の台湾では、一部の者は日本政府や日本人に対して恨みをもっていたが、秋槎や秋槎の家族にはそういう感情はなかったという。

秋槎は台湾人の子弟が通う公学校で「皇民化教育」を受けた後、高等女学校に入学する。そこでは台湾人は級長にはなれないという制限はあったものの、日本人とともに学んだ。副級長をつとめ活発な生徒だった秋槎は、台湾での日本の教育は「きれいごとではなく、実に立派だった」と語る。

卒業後の目標は医者になることであったが、医学を学ぶには台湾では不可能であり、当然のように日本への留学を選んだ。当時の台湾では、日本留学は裕福な家庭のステイタスシンボルであったのである。
 
2. 日本での留学生活

1938年春、秋槎は同じく日本に留学する姉と弟とともに列車と船を乗り継いで、東京に到着した。東京では下北沢に一軒家を借り、台湾から「女中さん」も来てくれ、父からの十分な仕送りの下、帝国女子医学専門学校に通った。

帝国女子医専では一学年に180人が学び、うち台湾人留学生は10人、朝鮮人留学生が10人、中国人留学生が2人ほど、他にハワイの日系二世もいたという。留学生は裕福なエリート家庭の出身者が多く、銀行の頭取や政治家の娘など、選りすぐりの人材が留学しにきていた。同時期の留学生に汪兆銘(1833-1944、中華民国の知日派の政治家)の次女がいた。同じ植民地出身者でも朝鮮人留学生は反日感情が強く、秋槎は朝鮮人留学生に対してよりもむしろ中国人留学生に対して親近感をもっていたという。

学内には「台湾人同郷会」があり、入学時と卒業時に集まって料亭で食事し、記念写真を撮影することが主な活動であった。授業内容は難しく、とくにドイツ語がつらかった。

東京の生活と学校にも慣れた頃、秋槎は著名なキリスト教社会運動家、賀川豊彦(1888-1960)との出会いにより、キリスト教に入信する。来日直前の母の死が秋槎をキリスト教の信仰へかりたてたのであった。秋槎は学業に追われながらも、毎日曜日「下北沢ルーテル教会」へ通った。学校でも教会でも、台湾人という理由で差別を受けることは少なかったという。

3. 終戦と帰国 

1941年の日米開戦後、戦時下にあって医者が必要とされ、戦時特例により秋槎は帝国女子医専を半年繰り上げて卒業する。卒業した翌日から、尊敬する賀川豊彦が設立した中野組合病院で勤め始めた。

ほどなくして同じく台湾人留学生であり医者であった男性と結婚し、長野県に疎開した。当地では日本人の医者が出征したため、台湾人医師の緊急募集があったからである。

戦況はますます激化する中、戦争は突然終わりを告げた。終戦と同時に秋槎ら台湾出身者は日本国籍ではなくなり、植民地出身者は帰国か残留の選択を迫られる。終戦後台湾が中国に復帰し、今後の日中関係を考えると、秋槎は「今機会を逃したら、いつ帰国できるかわからない」と思い、家族とともに引き揚げ船で台湾へ帰った。
 
4. 再び日本へ

秋槎はほぼ3年ぶりに故郷の地を踏み、正式に中華民国国籍になる。医院を開業し生活も安定してきたが、台湾は国共内戦後中国大陸から渡ってきた国民党政府の専制政治の下で、不穏な空気に包まれていた。1947年の二・二八事件(国民党政府による台湾人弾圧事件)をきっかけに離台の決心を固める。目的先はもちろん日本である。幼い頃から日本の教育を受け、日本留学を果たし、日本で医師として出発した秋槎は、同胞を酷遇する国民党政府下の台湾より、日本を永住の場所として選んだのであった。

運良く京都大学から招聘された夫に従い、4人の子どもを連れて再び日本へ向かった。

1950年4月のことである。

京都での生活の後、大阪で夫とともに病院を開業する。秋槎は産婦人科、内科を担当する一方、県立神戸医科大学(現在の神戸大学医学部)で博士学位を取得した。

やがて、日中国交関係の変化――1972年日本が台湾の中華民国と断交し、中国大陸の中華人民共和国と国交を締結した――の前夜、秋槎は多くの台湾人がそうしたように、日本に帰化した。国際的にも孤立しつつある台湾が、いずれ中国の共産党政府に統一されるかもしれぬという恐怖心があったという。日本国籍取得と同時に、秋槎は「和田彰子」という日本名をもった。

今、秋槎は、自身を日本に住む台湾人であり、同時にまた台湾出身の日本人であると語る。現役の医師として診察しながら、毎日曜日には教会での礼拝は欠かさないという。

おわりに

許秋槎が日本留学によって得たのは医学の専門知識とキリスト教であり、二つともいずれの国においても国籍、性別にかかわらず自己を活かせるものであった。結局、日本を選び在日台湾人、台湾出身の日本人というアイデンティティをもつに至った秋槎は、日本留学とその後の人生への影響を肯定的にとらえている。

戦前日本に留学した台湾出身者は、経済的教育的に恵まれた家庭の支援を背景に、植民地という周縁から宗主国という中心へと向かった者であり、総じてみれば、出身地の台湾でも在日台湾人社会でも、その職業と地位によって中心的存在となり、プラスに評価されているといえる。

帰米といわれる人々が、アメリカ社会の周縁から日本留学によってさらに日系移民社会の周縁へと向い、ある種の苦難を余儀なくされ、アメリカにも日本にも複雑な感情をもつ傾向にあったこととは様相を異にしているといえよう。


主要参考文献
・阪口直樹『戦前同志社の台湾留学生 キリスト教国際主義の源流をたどる』(白帝社、2002年)
・和田彰子『神様の庭で』(互思樹、1999年)

本稿は、文献資料の他、許秋槎(日本名、和田彰子)氏に、2006年から2008年にかけて合計4回行ったインタビューに基づいている。

© 2011 Chieko Shirota

Japan oral history students taiwanese

About this series

関西居住の学徒が移民・移住に関わる諸問題を互いに協力しあって調査・研究しようとの目的で。2005年に結成された「マイグレーション研究会」。研究会メンバー有志による、「1930年代における来日留学生の体験:北米および東アジア出身留学生の比較から」をテーマとする共同研究の一端を、全9回にわたり紹介するコラムです。