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二つの国の視点から

ケニー・エンドウ ~"ダブル"の感覚で叩く和太鼓 -その1

東京の浅草に太鼓館(ドラム・ミュージアム)という博物館がある。展示物に触ってもいけないのがほとんどの博物館であるなか、ここでは好きなように世界各地の太鼓を叩いていい。和太鼓の名店、宮本卯之助商店が1987年につくった世界でも珍しい博物館だ。

太鼓館の元室長、越智恵は、以前、ロサンゼルスで開かれたTaiko Conference(太鼓会議)に参加した。「太鼓会議」は1997年にはじまり、会を追うごとに盛大になり、内容も充実してきている。さまざまな流派がいわば超党派で集まる会議で、派閥意識が薄いアメリカだからこそできる催しだと越智は話していた。

Kenny Endo (Photo: Toyo Miyatake)

宮本卯之助商店と強い関係を持っている日系アメリカ人の和太鼓奏者が、ケニー・エンドウである。同商店はこれまでケニーが出したCDの制作に携わっており、彼が東京に来たときはいつも宿泊施設などの面倒を見ている。

彼が以前来日したとき、浅草のアリゾナ・キッチンという店で一緒に食事をした。「あめりか物語」を書いた永井荷風が通った浅草の名店で、今でも店内には荷風の写真が飾ってある。ケニーは実に温厚で、宮本卯之助商店の社長もその人柄が気に入っているらしい。

北米の和太鼓は、創始者の田中誠一が第1世代とすると、弟子のケニーらが第2世代、ケニーの弟子のマサト・ババらが第3世代と言える。本稿では、ケニー・エンドウに焦点を当てながら、3代にわたる北米和太鼓を通観したい。

アメリカにおける草創期

北米の和太鼓の歴史は、1968年にサンフランシスコで和太鼓の指導をはじめた田中誠一によって、その幕を開けた。

長野県で育った田中は、小さいころから和太鼓に親しみ、中学生のときに小口大八が率いる「御諏訪太鼓」に入門しようとしたが、門外不出を理由に、入門が許されなかった。だが、1967年にアメリカに渡り、アメリカで和太鼓を広めたいという意思を伝えると、入門が許され、それが「サンフランシスコ太鼓道場」の結成につながっていく。

翌1969年には、ロサンゼルスの洗心寺で「緊那羅太鼓」(キンナラ・ダイコ)が日系3世の開教師であるマサオ・コダニや、1974年に結成されたフュージョンバンドの「ヒロシマ」でも和太鼓奏者として活躍したジョニー・モリらによって設立される。緊那羅とは仏法の守護神の一つで、音楽の神様である。いかにもお寺から生まれたグループらしい命名だ。

精神性を重んじ、強力な指導力を発揮した田中と違い、緊那羅太鼓には確固たる指導者がいない。人間関係に上下もない。太鼓の叩き方は、当初、『無法松の一生』で太鼓を叩く三船敏郎などを参考にした。偶然同時期にカリフォルニアで生まれた2つのグループだったが、考え方の相違のため、両者には大きな摩擦があったという。

緊那羅太鼓の一番の功績は、何といってもワイン樽を利用して和太鼓をつくることを考案したことである。これには日本生まれの田中も気づかず、感心した。この発案により、太鼓が全米に広がることになった。

70年代に入ると、「サンノゼ太鼓」が設立された。ロサンゼルスと同じく、仏教会が母体となり、日系3世が中心となったが、技術的にはサンフランシスコの田中の指導を受けている。

1979年にはニューヨークで「ソウ・ダイコ」(僧太鼓)が生まれた。こちらも田中誠一の教えを受けたグループで、この辺りまでを第1世代と呼ぶことにする。

第1世代の時代をアメリカの社会状況と比べてみると、ちょうどアジア系アメリカ人が、自分たちのアイデンティティに目覚め、大学にアジア系アメリカ研究の学科を要求した時期と重なる。日系人にとって和太鼓が、自分たちの民族性を自覚し、それを表現するものであり、さらにはステレオタイプを破るものであったことを考えると、田中誠一の出現は、偶然とはいえ、実にタイムリーだった。

また、日本でも、「鬼太鼓座」(おんでこざ)が佐渡で結成されたのが1969年、そこから「鼓童」が枝分かれしたのが1981年と、従来とは異なった太鼓グループが同時期に生まれたのは興味深い。両グループは日本の若者にも、日系人を含めたアメリカの若者にも強い影響を与え続けている。

Kenny Endo (Photo:Shuzo Uemoto)

和太鼓に衝撃を受け、日本へ

第2世代は、冒頭で紹介したケニー・エンドウを中心とした世代で、80年代から90年代に創設された太鼓グループとする。ケニーは、1953年にロサンゼルスで生まれた。父が1世で母は2世なので、父親から見れば2世、母親から数えれば3世、中間をとって2.5世ともいえるだろう。

ケニーは幼いころからドラムが好きな子供で、中学生の頃にはすでにドラムのレッスンを受けている。高校生になると、ジャズバンドを結成し、演奏活動をするようになり、大学生の時には、ドラマーとして稼ぎながら授業料を捻出した。そんな彼が和太鼓に出会ったのは1973年、大学2年の時のことだった。サン・ノゼで「サンフランシスコ太鼓道場」の演奏を聴き、衝撃を受けた。

同年、ネイティブ・アメリカンの居住区で働く機会を得たケニーは、彼らの音楽や社会的状況を知り、自分自身のルーツの文化を学ぶべきだと実感した。

そして2年後の1975年、ついに彼はロサンゼルスの「緊那羅太鼓」の門を叩き、和太鼓の世界に足を踏み入れる。翌年、UCLA(カリフォルニア大学ロサンゼルス校)を卒業すると、サンフランシスコに居を移し、「サンフランシスコ太鼓道場」で田中の教えを受ける。それから5年間、ケニーは和太鼓を勉強しながら、ドラマーとして生計を立てていたが、どちらかを選択する必要性を感じ、和太鼓を選んだ。そして、さらに研鑽を積むために、1980年から10年にわたって日本に滞在することになるのである。

ケニーはまず、田中が師事した長野県、「御諏訪太鼓」の小口大八の教えを受けた。小口は1950年代に組太鼓を発案して、太鼓の歴史を一変させた人である。それまで、太鼓の演奏は1人か2人でやるものだった。ケニーは半年後に東京に移り、テンポがよく、斜め打ちを考案した「大江戸助六太鼓」を学んだ。 1981年には望月左武郎の下で邦楽囃子の門下生となり、1987年に望月太二郎の名前をもらい、外国人としてはじめての名取となった。

1982年には、助六太鼓の団員となり、プロの和太鼓奏者として、北海道から鹿児島までツアーをし、1990年にアメリカに帰国した。
ほんの1、2年の滞在のつもりが、10年の長きにわたった。それだけ和太鼓の世界の奥深さに、彼は魅了された。今でも訪日した際には、望月の稽古を受けている。

その2>>

*本稿は、時事的な問題や日々の話題と新書を関連づけた記事や、毎月のベストセラー、新刊の批評コラムなど新書に関する情報を掲載する連想出版Webマガジン「風」 のコラムシリーズ『二つの国の視点から』第12回目からの転載です。

© 2010 Association Press and Tatsuya Sudo

Kenny Endo taiko

About this series

海外に住む日系人は約300万人、そのうち在米日系人は約100万人といわれる。19世紀後半からはじまった在米日系人はその歴史のなかで、あるときは二国間の関係に翻弄されながらも二つの文化を通して、日系という独自の視点をもつようになった。そうした日本とアメリカの狭間で生きてきた彼らから私たちはなにを学ぶことができるだろうか。彼らが持つ二つの国の視点によって見えてくる、新たな世界観を探る。

*この連載は、時事的な問題や日々の話題と新書を関連づけた記事や、毎月のベストセラー、新刊の批評コラムなど新書に関する情報を掲載する連想出版Webマガジン「風」 からの転載です。