おばあさんの手紙 ~日系人強制収容所での子どもと本~

東京にある、子ども文庫の会の青木祥子さんから、今から10年か20年前に日本の新聞に掲載された日系の方の手紙のことをお聞きしました。その方は、第二次世界大戦中アメリカの日系人強制収容所で過ごされたのですが、「収容所に本をもってきてくださった図書館員の方のことが忘れられない」とあったそうです。この手紙に背中を押されるように調べ始めた、収容所での子どもの生活と収容所のなかでの本とのかかわりをお届けします。

* 子ども文庫の会による季刊誌「子どもと本」第133号~137号(2013年4月~2014年4月)からの転載です。

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第五章 戦後の新たな出発:1945年以降(6)

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4. 子どもにとっての痛み

収容体験が子どもにあたえた影響は、一人一人異なりますが、年齢、それまでの生活環境、サポートグループの有無、親の精神的安定度等によって大きく違ってくるようです。日系アメリカ人であることだけで、収容所にいれられたわけですから、日系であることを恥じたり、日系であることに罪の意識をもつことになりました。

しかし、幼少期を収容所で過ごした多くの人は「楽しかった」、「一日中野球をしていて楽しかった」と言います。親が子どもを守ってくれていましたし、子どもは、愛してくれる人がいれば、どんな所でも逞しく生きて行ける力をもっているようです。ベーコンも ...

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第五章 戦後の新たな出発:1945年以降(5)

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公聴会———1981

7月から12月にかけてアメリカ各地で開催された公聴会が、シアトルにやって来た時のことです。その頃、マコ・ナカガワの父親は、自らの米寿の祝いに誰を招待するかで頭が一杯だったのですが、この公聴会で証言することは大事なことだと考えて、娘と一緒に参加しました。

父は耳が遠くなっていたので、二人で合図を決めました。ポン、ポン、ポンと父の肩を軽く3回叩くと、「始めて、お父さん。何でも好きな事を話していいよ」という意味です。「お父さんが話おえたら、私がそれを英語に直してから ...

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第五章 戦後の新たな出発:1945年以降(4)

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3. 沈黙をやぶって———賠償運動   <1970年代から1980年代 >

60年代のアフリカ系アメリカ人の公民権運動とマイノリティ(少数派民族)運動に力を得た日系の若い二世、三世も、大学にアジア研究学部を創設し、アジア系や女性の教官を増やすようにと声をあげはじめます。トパーズ収容所では赤ちゃんだったカシマも、この頃にはゴードン・ヒラバヤシの弟のジムとデモの先頭に立っていたと言います。ある三世の言葉です。

黒人運動がなかったら我々もなかったでしょう。確かにそれを境に、自分が何者なのかわかるようになり、誇りに思い始めたのです。また政治的に戦闘的とさえ言っていいくらいとても攻撃的になり、我々が何なのか、我々は今や立ち上がり ...

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第五章 戦後の新たな出発:1945年以降(3)

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2. 閉じた記憶をひもとき始めて <1960年後半から>

『マンザナールよ さらば』———ジャンヌ・ワカツキ

「ねぇ、おばさん、僕マンザナーってところで産まれたんだけど、どんなところだったの?」と、唐突に甥っ子に聞かれたの。実家の家族以外の者から聞いたはじめての「マンザナー」だった。そこでキャンプのこと、すごい砂嵐、まずい食事、どんな遊びをしてたか……を話していると ...

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第五章 戦後の新たな出発:1945年以降(2)

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もう一つの戦い 

数々の手柄をたてたシロー・カシノたち第100歩兵大隊1を含む第442連隊戦闘部隊を前にして、1946年7月15日、トルーマン大統領は、ホワイトハウスの庭で「諸君は敵と戦っただけでなく、人種差別とも戦かった。そして勝ったのだ」と語りました。第442連隊戦闘部隊はその活動期間と規模からして、アメリカ陸軍史上でもっとも多くの勲章を受けた部隊です。

しかし、これだけの活躍をして帰って来た第442連隊戦闘部隊の兵士たちにたいしても、一般市民が彼らの活躍を正当に認めるには長い時間がかかっています。本土に帰還した当時、ダニエル・イノウエがサンフランシスコでハワイに戻る前に散髪でもと店に入ろうとすると、軍服を着ていたのにもかかわらず、「日本人だろう ...

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