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米川という男:パート1—ケベックから日本へ

20 世紀初頭、カナダ西海岸の日本人移民は、カリフォルニアの日本人移民と同様に、地元白人からますます敵意を向けられるようになった。移民の人種的、宗教的違い、そして白人の農民や商人の経済的競争相手としての存在は、排斥同盟や西海岸の政治指導者による日本人労働移民の遮断運動を刺激した。1908 年までに、バンクーバーでの反アジア人種暴動を受けて、オタワの指導者は東京と独自の「紳士協定」を結び、カナダへの日本人の合法的な入国を年間 400 名に制限した (後に年間 150 名に削減)。

逆に、戦前には日本人がほとんど定住しなかった遠く離れたケベックでは、日本や日本人移民に対する一般の態度はより中立的だった。ケベックのフランス系カナダ人多数派の間で支配的な機関であるカトリック教会は、日本人や他のアジア人を助け、改宗させる布教活動を組織した。戦間期には、12人のフランス系カナダ人の司祭と修道女が宣教師として日本に定住した。(後にモントリオールの枢機卿となり、ケベックの「教会の王子」となったポール・エミール・レジェは、1930年代に福岡で教鞭をとった。)

宣教師の中には、ユルバン・マリー神父として知られる素晴らしい司祭がいました。彼は日本名を米川と名乗りました。宣教活動に加え、米川はフランス系カナダ人の読者に日本を紹介し、日本文化について教える本を執筆しました。晩年、米川神父はペルーの日本人コミュニティの支援者として名を馳せました。

彼は、1890 年 5 月にケベック州トロワリヴィエール近郊の小さな町、サンナルシス ド シャンプランでアルフォンス ユルバン クルーティエとして生まれました。ジョセフ ドーファンとジョゼフィーヌ ルドー クルーティエの 8 人の子供の長男でした。2 人の姉妹は後に尼僧となり、アジアで働き、兄弟はカナダのさまざまな場所に移りました。両親は、アルフォンスがまだ 10 代のときに亡くなりました。

青年はトロワリヴィエールのフランシスコ会学校であるコレージュ・セラフィックと、サン・シュルピス神学校で学びました。1914年に誓願を立て、ケベック市で哲学と神学を学んだ後、1​​917年7月に叙階されました。

卒業後、彼はセラフィック学院で文学の教授として 1 年間勤めました。当時の新聞によると、アルフォンス・クルーティエ神父はサント・テレーズ学院の司祭に任命され、ケベック州ラヴァルのモントリオール郊外にあるカナダ太平洋鉄道の駅に新しく開設された礼拝堂を指導しました。

ル・ビアン・ピュブリクス、1918年10月31日。

1918 年 10 月、クルーティエ神父はフランシスコ会の別の司祭、イレール マリー ガマッシュ神父とともに宣教師としてアジアへ出航しました。日本に到着すると、北海道での宣教に任命され、日本語の集中的な勉強を始めました。

「日本語を学んだ後、私は9世紀にまで遡る高度な文明を持つ人々とより親密な関係を築き、彼らを心から愛するようになった」と彼は後に述べている。

同じ頃、彼は日本国籍を申請した。ある情報源によると、彼は宣教のために日本の法律でこの手続きを踏む必要があると感じたという。また、日本に対する感情に触発されたという情報もある。いずれにせよ、彼は1923年に日本国籍を付与され、名前をマサノリ・アーバン・マリー・ヨネカワ(「統治」の「マサ」、「アーバン」の「ノリ」、「」は米またはアメリカの意味)に変更した。

1921年、彼は鹿児島使徒座管区の旭川に宣教所を開設し、日本で宣教所を設立した最初のカナダ人司祭となった。彼は1925年から27年までそこで教会長を務めた。

日本滞在中、米川はケベックの新聞や雑誌に日本に関する記事やコラム(彼は「クロッキー」と呼んでいた)を寄稿した。宣教を開始した翌年の1922年に、彼はユルバン=マリー・米川の名で最初の著書『 Propos Japonais』 (1922年)を出版した。これは日本とカトリック教というテーマを中心にまとめられた一連の短いエッセイだった。

それは5つの部分に分かれていました。「社会生活について」[社会生活についての議論]では、日本の鉄道、消防士、礼儀作法などのテーマを取り上げました。「田舎について」[田舎の議論]では、日本の村、カトリックの埋葬、広島への旅行(原爆がこの地域を壊滅させる一世代前)などについて取り上げました。「宗教について」[宗教についての議論]のセクションでは、カトリックへの寛容さや神道の祭りなどのテーマを扱いました。「歴史について」[歴史についての議論]では、日本のカトリックの歴史について長いセクションを取り上げました。最後のセクション「使徒について」

『使徒的討論』は、宣教師たちの努力と、日本人をキリスト教に改宗させた司祭たちの成功について検証した。出版後、この本はカナダ系フランス語圏の新聞で広く好意的にレビューされた。ラ・トリビューン紙に寄稿したある評論家は、「彼は日本を紹介し、絵画のような一連の章を通して私たちを北から南へと旅させる。最初から私たちの注意を引きつけ、興味を喚起し、好奇心を刺激する。そしてこれらすべてが章ごとに成長し、最後まで続く」と熱く語った。

ル・ヌーヴェルリスト、1928年10月12日。

1928年、10年間の日本滞在を終えて、米川はカナダに帰国しました。彼の到着はカナダ全土の新聞で歓迎されました。米川は数々のインタビューで、今回の訪問の目的はアジアで働くフランス系カナダ人の司祭をもっと募集することだと述べました。

カナダ訪問中、彼は一連の講演を行った。ウィンザーの「クラブ ラ サール」で講演し(そこでは日本語で講演を開始して聴衆を楽しませた)、その後オタワで 2 回の講演を行った。1 回はオタワ大学で日本の政治史について、もう 1 回は修道院で日本人の魂について(提灯スライド付き)である。コロンブス騎士団の後援の下、トロワ リヴィエール市役所で大勢の聴衆を前に、カトリックの歴史と日本における迫害について講演した。

米川氏のスピーチだけでなく、彼が着ていた日本風の絹の衣服も、マスコミの報道で広く取り上げられた。(また、日本での宣教活動のための資金集めのために彼が抽選会に持参した日本の品々も取り上げられた。)

カナダ訪問中、米川は日本を宣教活動の肥沃な土地として称賛した。「日本はカトリックへの改宗に驚くほどよく備えています。数年後には、日本は世界で最もカトリック教徒の多い国の一つになるでしょう。私の住む鹿児島県では、20か所で4,000人以上の信者を抱える幸運な牧師です。私の信者はとても誠実で熱心です。」米川は日本を新たな故郷と呼び、日本に戻るつもりだと何度も断言した。「日本で死にたい。」

しかし、彼は日本に帰国することはなかった。ある情報源によると、彼は健康状態が悪化したためカナダに留まらざるを得なかったという。彼は日本政府から特別扱いされなかった可能性もある。いずれにせよ、彼はイタリアに招かれ、ナポリのフランシスコ会アカデミーで教鞭を執った。

その代わりに、彼はエジプトに行くことを決意し、その後数年間をそこで様々な任務に就いて過ごした。一時期はカイロの聖母被昇天修道院の司祭を務め、その後はバコス郊外の修道院に勤めた。1934年、彼はアレクサンドリア司教区の長官に任命され、3年間務めた。

エジプト滞在中に、米川は宗教と日本社会に関するさらに 3 冊の本を書き、それらはヨーロッパで出版されました。 「Âmes japonaises 」(1933 年)は、キリスト教に改宗した日本人の生涯をまとめた物語集です。

『ラ・レヴュー・ドミニケーヌ』は巧みにこう表現している。「米川氏の本は、文体の弱さだけを批判するが、この本は、彼が紹介する奇妙な国を私たちに好きにさせる。私たちは『穏やかな笑顔の裏に激しい心の葛藤を隠している日本人』に魅了され続ける。しかし、私たちにとって日本を愛するということは、日本に住む人々の改宗を祈り、そこで働く宣教師たちを助けることを意味する。」

フランスの出版社のために制作された『Croquis Japonais』 (1933年)とベルギーで出版された『Le Raffinement Japonais』 (1934年)は、日本の政治発展、女性の地位の変化、芸術、文学、キリスト教(プロテスタントとカトリック)の歴史などを含む、日本の総合的な歴史研究です。

彼はこの10年間にエジプトに関する本を2冊執筆した。 『Visions Égyptiennes: Visions Profanes』 (1936年)は、イギリスの保護領が消滅しエジプトが独立した当時のエジプト社会を分析したものだ。 『Visions Égyptiennes: visions bibliques et chrétiennes』では、イスラム教徒が多数派を占める社会におけるキリスト教徒の困難な状況について論じた。聖体大会の時期に執筆された別の著作『 Dans l'Orbe de Manille 』(1938年)は、米国植民地時代末期のフィリピンの政治と社会を詳細に描写したものである。

この数年間、日中紛争が激化するにつれ、クルーティエ/米川は日本側の過激な擁護者として浮上した。表面上は反共産主義とソ連への恐怖が主な動機であったが、実際には彼の見解には中国人に対する人種的偏見も色濃く表れていた。

1935年にケベックを訪れた際にル・ドゥヴォア紙に受けたインタビューで、彼は日本による満州占領を称賛し、中国が野蛮な状態にあったため日本がこの地域を支配せざるを得なかったのであり、日本にはそこに領土的野心はなかったと主張した。彼は、リットン委員会の報告書で日本の政策が不当に批判されたとき、日本には国際連盟を脱退する以外に選択肢はなかったと主張した。

2年後の1937年11月、米川は家族と過ごすためにケベックに戻り、その後数か月間カナダに滞在した。この間、彼は中国における日本の政策を擁護する活動を再開した。1938年2月、彼はオタワ大学学術ホールで学会のメンバーに演説した。

英字新聞の報道によると、彼は日本が中国を侵略し占領したことに責任はないと主張した。「実際、現在の日中紛争の侵略者は共産主義だ。日本人は中国に領土的意図はない。彼らの唯一の目的は共産主義を撲滅することであり、中国がソ連の支配下に入るのを防ぐことで自国を救うことができると信じている。」

中国は国家ではなく、地理的統一性も国語もない家族の集まりだと彼は主張した。したがって、東京は自ら望んでいない戦争に従事し、その目的は中国における共産主義の侵攻を排除することだった。「日本は、自国の領土外で共産主義と戦争をしている唯一の国だ」と彼は結論付けた。「日本の行動は反撃だ。極東がソビエト化すれば、全世界の安全にとって恐ろしい脅威となるだろう」。その後すぐに、彼は自分の見解を概説したパンフレット「日中対立」を出版した。

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© 2024 Greg Robinson

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執筆者について

ニューヨーク生まれのグレッグ・ロビンソン教授は、カナダ・モントリオールの主にフランス語を使用言語としているケベック大学モントリオール校の歴史学教授です。ロビンソン教授には、以下の著書があります。

『By Order of the President: FDR and the Internment of Japanese Americans』(ハーバード大学出版局 2001年)、『A Tragedy of Democracy; Japanese Confinement in North America』 ( コロンビア大学出版局 2009年)、『After Camp: Portraits in Postwar Japanese Life and Politics』 (カリフォルニア大学出版局 2012年)、『Pacific Citizens: Larry and Guyo Tajiri and Japanese American Journalism in the World War II Era』 (イリノイ大学出版局 2012年)、『The Great Unknown: Japanese American Sketches』(コロラド大学出版局、2016年)があり、詩選集『Miné Okubo: Following Her Own Road』(ワシントン大学出版局 2008年)の共編者でもあります。『John Okada - The Life & Rediscovered Work of the Author of No-No Boy』(2018年、ワシントン大学出版)の共同編集も手掛けた。 最新作には、『The Unsung Great: Portraits of Extraordinary Japanese Americans』(2020年、ワシントン大学出版)がある。連絡先:robinson.greg@uqam.ca.

(2021年7月 更新) 

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