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https://www.discovernikkei.org/ja/journal/2023/9/15/taijo-imanaka-koyasan/

シアトル高野山住職・今中 太定さん — シアトルから世界へ広がる仏教の輪

1949年創立の真言宗寺院、シアトル高野山。のべ14年にわたり住職を務める今中太定(いまなか・たいじょう)さんは、アメリカで仏教がどのように人々の役に立つのかを常に自問し、新たな試みに挑戦し続けています。僧侶となり開教師としてアメリカに渡った経緯、仏教の真の価値などについて語ってもらいました。

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今、生きている人たちを仏教で励ましたい

真言密教の総本山、高野山を開創した弘法大師・空海の誕生から今年で1250年。戦後間もなく、シアトルのインターナショナル・ディストリクトを見下ろす場所に、日系1世たちの手によって建立されたのがシアトル高野山だ。そこで住職を務めるのは、今中太定さん。

参列者の顔ぶれは実に多彩だ。パンデミックに伴い、2020年から英語でのライブ配信を始めたところ、今ではカナダ、イギリス、オーストラリア、ルクセンブルク、ブラジル、スウェーデンなど世界中からの参加がある。

「アメリカ人にとって、仏教はまだまだひと握りの人たちのものという認識。書物や名言などを見聞きして、なんとなく素敵だな、と思うところでとどまっているようです。しかし仏教とは本来、人間の苦に向き合い、乗り越えるために手にする堅牢な杖のようなもの。もっと人々と仏教との距離を縮めるのが私の役目です」

特別な日に使う上等な食器ではなく、自然に手が伸びる普段使いの食器。太定さんが目指す仏教のあり方だ。仏教を身近に感じられるよう、日曜礼拝に加え、週4回の瞑想にも力を入れている。瞑想とは、心の眼で生きとし生けるものを観察し、自分と変わらないじゃないかと見い出す旅、と太定さんは説明する。「空海さんの言葉では、『法界無縁の一切衆生を観ずること、なおし己身のごとし』。世間をよく見渡してみれば、知らない人々の中にも私と同じ柔らかで繊細な心がある、という意味です」

法話ではトルコの大地震やアメリカの小学校での銃乱射など、その時々の世界情勢に触れることも多い。ロシアによるウクライナ侵攻が始まった際も、マントラを唱え、皆で祈った。「真言密教の核は、拝むこと。その原動力は心配、つまり、あの人悲しいだろうな、この人苦しいだろうなと、心を配ることです」。

ウクライナのルーツクからリモート対話に臨む和防ことヤンさん

セッションの最後に、「私はウクライナから参加しています」と、カメラをオンにして発言した人がいた。Zoomのスクリーンネームは、Wabo。漢字では「和防」と書く。平和を守り、ロシアの侵入を防ぐという意味だそう。1カ月ほど毎週、瞑想に参加していた。

身を案じた太定さんは、マンツーマンの対話に誘ってみた。本名はヤンさん。26歳の若者で、ウクライナ西部ルーツクに住んでいると言う。仏教徒がわずか3人の町で、ヤンさんは座禅同好会を始めたと明かす。太定さんは早速、日本の高野山の知り合いに連絡し、作務衣を寄付してもらった。そのほかにも地元の商店から緑茶や菓子、線香などの寄付が続々と集まり、ルーツクに届けることができたと話す。「ご縁を取り持っただけです」と、太定さんの表情はどこまでも柔らかい。


僧侶としての道へ

死を見つめ読書を通して死の恐怖から逃れるすべを探った高校時代

一般的な日本の家庭で育った。家に小さな仏壇はあったが、太定さんいわく、お盆やお彼岸にお坊さんに来てもらうだけの「グータラ仏教徒」。高校生になった頃、死について真剣に考えるようになった太定さんは、「自分も必ず死ぬ」という事実に押しつぶされそうになり、死ぬ夢を毎晩見続けた。「死ななければならないという一大事に比べれば、いい学校、いい会社なんてどうでもいい」と、受験勉強が手につかない。どこかに死からの逃げ道はないかと片っ端から本を読みあさる日々。そんな時期に、司馬遼太郎の歴史小説『空海の風景』に出合う。空海の宇宙や生命の捉え方に共鳴し、読み進めるうち、死の恐怖で凍りついていた心が溶け始めた。

修行僧として高野山奥の院で周囲には雪が積もる中真冬の水行に耐える

大学に入学して東洋美術を専攻すると、仏門へ進む決意を固める。卒業後は高野山で苦しい修行に耐え、念願かなって僧侶に。新米僧侶の太定さんの役割は、檀家回りだ。月命日に僧侶を呼ぶ習慣が残る地域で、太定さんは来る日も来る日も十数軒を訪問し、お経をあげた。

しかし、若干23歳の太定さんは、檀家さんたちとの会話がまるで弾まない。そもそも、青二才の自分が唱える薄っぺらなお経が、何十年も前に亡くなった人の魂にどう届いてどう役に立っているのだろうかと、自分の存在価値を見出すことができなかった。

「思春期の自分が仏教に励まされたように、今、生きているからこそ苦しんでいる人たちを励ましたい」と願う太定さんは、再び先の見えない闇に迷い込んでしまった。

1993年高野山宝寿院にて伝法灌頂入壇の儀式を経て正式な僧侶に中列左から2人目が太定さん

ある日、バイク事故で命を落とした24歳の若者の枕経を命じられた。枕経とは、遺体の枕元でお経を唱え、魂を鎮める儀式のことだ。息子を亡くして錯乱状態の母親を前に、太定さんの緊張は極度に達し、お経を読む声が震えた。葬式、初七日、四十九日を経て、月参りも欠かさず、やがて三回忌を迎える頃、母親は「あなたに来てもらって良かった」と言い、息子を追って死のうと思っていたことを打ち明ける。

「毎月、お経をあげに来て、時には一緒に泣いてくれて。おかげで、私は死ななかった」と。太定さんが初めて、自分のお坊さんとしての存在価値を実感した瞬間だった。


苦悩の先に見えてきたもの

そうして僧侶としてのやり甲斐を深めていく太定さんであったが、新たな疑念が湧く。「日本人の心の拠り所となる仏教は、果たして世界で通用するだろうか」

日本にいる限り、宗派の壁を越えることはできない。自分が接する人々は同じ宗派の檀信徒のみ。「お釈迦さまの教え、空海さんの智慧(ちえ)はユニバーサルなはずなのに」。阪神タイガースの選手が甲子園球場で人気があるのは当たり前。そんなコンフォートゾーンを飛び出して、異文化、異宗教の土地で、自分がくみ出す仏教が必要とされるのか、苦しい人たちの救いになるのか、僧侶としての自身の力量を試したくなった。

シアトル高野山

高野山真言宗の寺院は、ハワイに14カ所、アメリカ本土に5カ所を数える。太定さんは早速、米国行きを志願した。最初こそ難色を示した住職も、笑顔で送り出してくれた。行き先はシアトル。カリフォルニア州へ旅立つはずが、さまざまな事情が重なって急きょ変更された。

しかし、米国の日系寺院独特の環境やしきたりに順応するのに精一杯で、思ったような成果も上げられない。5年目を迎えた頃、両親が病に倒れ、志半ばで帰国することに。2014年に再びシアトルへ赴くと、中心となる日系2世のメンバーは80代後半に差し掛かり、3世はゼロ。寺は存続の危機を迎えていた。

「仏教に縁のない人たちにも、このお寺を必要としてもらうにはどうしたら……」と、太定さんは思案し、方向性を改めた。

「新しいことに挑戦しよう。自分から社会に飛び込み、世の中との接点をひとつずつ増やしていこう」。そこで始めたのが、「桜コン」と「ドラゴン・フェスト」への出展だ。続けてみると、違う景色が広がり出した。

桜コンではお守りや数珠を並べて販売。口コミで評判となり、アニメやゲームのキャラクターに扮したコスプレイヤーたちが列を作る。お守りが欲しい理由を尋ねると、予想に反して深刻なものばかり。

「親から虐待されているボーイフレンドが守られますように」と願う10代の少女。「わが子のために、自分の命が守られますように」と思いを託すのは、危険な任務に従事している警察官だ。「あと3年もアフガニスタンから帰ってこられないのです」と、海兵隊の夫を心配する若い女性もいた。

太定さんが10分間、全身全霊で拝み、お守りに魂を入れると、ポロポロと涙を流す人も少なくない。

桜コンではたくさんの人がお守りを求めてシアトル高野山のブースにやって来るそのひとりひとりに太定さんが心を込めて祈祷

ドラゴン・フェストで忘れられない光景がある。子どもふたりを連れた若い母親がブースを訪れた時のこと。祭りの喧騒の中、ふと見上げると、その母親には鼻がなかった。完全につぶれていたのだ。「この子たちが、父親から守られますように」。わずかに怒気をはらんだ声で女性がそう告げた時、太定さんは、目の前の女性が家庭内暴力の犠牲者であることを悟った。

こうした経験を重ねるうちに、やがて太定さんはあることに気付く。「この人たちは、今まで誰かに腹の底から自分のことを祈ってもらった経験がなかったのだろう。そこに縁なき人々を仏教につなぐ道があるかもしれない」

太定さんの挑戦は続く。「生きているからこそ苦しく、今にも溺れそうな人の役に立つことがお坊さんの存在理由。うちのお寺は魂の野戦病院。苦がある限り寄り添います。ストリートにこそ仏教を、ですね」

護摩供では護摩札に悩み事や願い事を書くと太定さん自らマントラを唱えながら不動明王の大悲の炎に投げ入れ煩悩を焼き切る

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今中太定: 1968年生まれ。大阪市出身。慶應義塾大学で東洋美術を専攻後、1992年に高野山蓮華定院にて出家得度。2006年、開教師としてシアトル高野山に赴任。2011年にいったん日本に帰国し、圓通律寺の寮監として修行僧を教育後、新たに設立された総本山金剛峯寺国際局に配属された。2014年から再びシアトル高野山の住職を務め、現在に至る。異宗教間の理解や対話促進を目的に設立されたシアトル大学の交流センター (CEIE)の諮問委員としても精力的に活動。アメリカ人の妻との間に一人娘がいる。

 

*本稿は、「SoySouce」(2023年8月9日)からの転載です。

 

© 2023 Keiko Miyako Schlegel

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執筆者について

フリーランス翻訳家・通訳。外務省派遣員として、92年から95年まで在シアトル日本国総領事館に勤務。日本へ帰国後は、政党本部や米国大使館で外交政策の調査やスピーチ原稿の執筆を担当。キヤノン元社長の個人秘書、国連大学のプログラム・アシスタントなどを経て、フリーに転身。2014年からシアトルへ戻り、一人娘を育てながら、 ITや文芸、エンタメ系を始めとする幅広い分野の翻訳を手がける。主な共訳書は、金持ち父さんのアドバイザーシリーズ『資産はタックスフリーで作る』など。ワシントン州のほか、マサチューセッツ、ジョージア、ニューヨーク、インディアナ、フロリダに居住し、米国社会に精通。趣味はテニス、スキー、映画鑑賞、読書、料理。

(2023年9月 更新)

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