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一世の記録を拾い集めた男 ~加藤新一の足跡をたどって~

第14回 日系新聞の記者となる

中部カリフォルニアで父を手伝い農業に従事した加藤は、父が日本に戻るとひとりロサンゼルス近郊のパサデナに出て造園業をつく。しかし、まもなく日系新聞の記者となった。ジャーナリズムに長年携わる彼の原点である。

北米でもハワイでも、そして南米でも移民社会のなかからは自然と日本語の新聞が生まれる。言葉の壁によって情報を得るのが難しいなか、日本語での情報は生活に欠かせないからだ。初期の日本語新聞は、日本で自由民権運動に関わった青年たちによる政治的な文書という意味があったが、移民が増えるにつれて各地域のコミュニティー紙が拡大していった。

ハワイ、サンフランシスコ、シアトル、ロサンゼルスをはじめデンバーやソルトレークシティ、シカゴなどでも日系新聞は誕生した。加藤新一が記者として活躍していたロサンゼルスの日系新聞は、サンフランシスコよりかなり遅れて1903(明治36)年4月に創刊された『羅府新報』がはじまりだった。


羅府日米から加州毎日へ

大正時代に入り、日系人社会が発展し「リトル・トウキョウ」が形成されるころになると、『羅府日米』や『南加タイムス』などが創刊された。つづいて1931年には『加州毎日』が創刊された。こうした新聞は、経営上の問題や編集方針の違いなどから、廃刊や合併などが絶えず、人材も流動的だった。

加藤が所属した『羅府日米』や『加州毎日』もその例に漏れることはない。「米国初期の日本語新聞」(田村紀男、白水繁彦編、勁草書房)には、前者の廃刊から後者の創刊にいたる動きが、加藤の名も交えて以下のように紹介されている。

「一九三〇年の不況のあおりで、桑港の『日米新聞社』社内に賃金遅延などがあり、その不平を土壌に一九三一年に日米新聞争議がひきおこされる。この過程で安孫子久太郎社長の所有する『羅府日米』が売却され、間もなく廃刊になる。この『羅府日米』の社員でストに同情的な井上勇、加藤新一、松井豊蔵らは、一九三一年一一月、藤井整のもとに新しい日刊紙『加州毎日』を発刊するに至る」。

これをみると、加藤は最初『羅府日米』で記者をしていたが、つぎは発行人をサポートする形で『加州毎日』の記者となったことがわかる。

安孫子久太郎(1865〜1936)は、日本人移民のリーダー的な存在であり、事業家でもあった。彼は、出稼ぎ的な志向の強い日本人移民に、アメリカに定着して生活し地域の一員となるように啓蒙すると同時に、そのための活動も実践した。


日系新聞のデジタルアーカイブから

当時の日系新聞はどのようなものだったのか。加藤はどのような記事を書いていたのだろうか。調べていく中で、インターネット上で「邦字新聞デジタル・コレクション ジャパニーズ・ディアスポラ・イニシアチブ」というページにであった。

これは、アメリカのスタンフォード大学の「The Hoover Institution Library & Archives」のなかにあるもので、同サイト上の説明によると、

「アメリカ大陸、アジアにおける海外在住の日本人や日系人が発行した海外日系新聞を集めた世界最大規模のオンライン、オープンアクセス、全ページ画像を提供するコレクションです。新聞の画像を可能な限り光学文字認識(OCR)でテキスト化することにより、新聞記事の検索を可能にしました。各新聞は発行年月日、新聞名、発行場所ごとに閲覧でき、サイト内で他の新聞と横断検索ができます」とある。

ここにはアメリカで発行された日系新聞もデータ化されていて、キーワードによって記事検索ができるようになっている。ここで「加藤新一」で検索すると、本人が記者として書いたものと、本人について書かれているものが数十件でてきた。

1925年から1940年までの間の、『羅府新報』、『加州毎日』のほか『新世界朝日新聞』、『大北日報』、『日布時事』に載った、加藤新一が署名で書いた記事と加藤新一の名前が出てくる記事だ。


1932年ロサンゼルス・オリンピックを取材  

『加州毎日新聞』(1932年7月30日付)

検索によって見つかった加藤本人が書いている記事は「トメト耕作者 統一運動の内容」(『加州毎日』1935年12月13日)のような農業関係の記事や論説のように主張を掲げた記事があったが、もっとも目をひいたのは、1932年7月30日付の『加州毎日新聞』の1面を飾った「ロサンゼルス・オリンピック開催」の記事だった。

「大會開く」という見出しのトップ記事のほか、「あすは勝つぞ 青年日本 初登場 見よ!」の見出しがついた、競技別の日本選手の活躍予想や「出陣を前に 抱負を語る選手たち」の見出しで、個別の選手のインタビューなどが紙面を埋めている。

当日の朝のスタジアムの写真も2枚掲載されているオリンピック特集だが、このなかで「メードイン日本 繪日傘の花野 日本新聞記者八十名」という見出しで、「オリンピック スタジアムにて 加藤新一記」という記事が2番手で掲載されている。

この年の7月30日に開幕したロサンゼルスオリンピックの模様をスタジアムにいた加藤が臨場感を漂わせ記している。以下、少し長くなるが加藤による開幕の模様を一部紹介しよう。

「歴史的開場式を見んものと押し寄せたる観衆は無慮十万餘、折角照りつける南加の陽光は、少々暑く、これを避ける日本国産の日傘は千紫万紅色とりどりにして一大美観を呈した。

定刻午後二時、カーチス副大統領はモーニングにシルクハットの服装で、大スタヂアム正門に姿を現わすや學内にギッシリとつめた十万餘の観衆は破れるごとき拍手を送る。

副大統領がスタヂアム北側正面一段高い名譽総裁席に着席二時三十五分観衆総立ちのうちに二千人の大バンドと一千人の大合唱團が場内を壓して米國々歌を奏する。

終わるや、ギリシャ代表選手を先頭にABC順で各國選手團が、各プラカードと國旗を先頭に西南入口から隊伍堂々と繰り込む。

日本選手は三時三分秩父宮殿下御下賜の絹地日章旗を先頭に既報の如き順序にて隊伍を整え、堂々と入場し万雷の如き拍手を浴びせかけられた。(後略)」

 この日の紙面の華となるような記事を任せられた加藤の意気込みが伝わってくるようだ。

(敬称一部略)

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© 2021 Ryusuke Kawai

Issei Japanese Newspaper Journalist Kashu Mainichi Los Angeles Olympic Shinichi Kato United States USS Gripsholm

このシリーズについて

1960年前後全米を自動車で駆けめぐり、日本人移民一世の足跡を訪ね「米國日系人百年史~発展人士録」にまとめた加藤新一。広島出身でカリフォルニアへ渡り、太平洋戦争前後は日米で記者となった。自身は原爆の難を逃れながらも弟と妹を失い、晩年は平和運動に邁進。日米をまたにかけたその精力的な人生行路を追ってみる。

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