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静かな戦士たち

ジョージ(ガンジロー)・モリヒロさん

442部隊、フランス、シャンボワにて。(写真:U.S. National Archives, ID#111-SC-253983)

「戦争にね、あの時の僕は興奮させられたなぁ」と、危険とも取られる発言をするのはジョージ・モリヒロさん。「でもね、誤解しないで下さいよ。僕は17才だったから。ライフルを持って国のために戦うことにわくわくしていた。周りにいくらドイツ兵が倒れてたって、自分たちは決して死なないと思っていた」。それが銃弾がヘルメットの右端をかすって軽い負傷をした時、「死ぬ事もあるかもしれないって思いました」。

モリヒロさんはタコマ市近くのファイフに生まれる。農業に適している肥沃な土地だったが、広島出身の父はタコマ付近の木材工場に勤務。戦争が始まり、ハワイ出身の母、姉2人、兄1人と共に一家はピュアラップの仮収容所からミネドカ(*)に収容された。もう一人の姉は、真珠湾攻撃以前に父の故郷、広島に送られそのまま日本に住みついた。

その前年、1年早く高校を卒業したモリヒロさんは兄の後を追い軍隊に志願しようとしたが、「母に一晩中泣かれて『兵隊は家族から1人でたくさん!』と言われてしまって、一時断念」。結局2カ月後にI-Company(当初は200人ほどの部隊。後500人)に入隊し、ミシシッピー州キャンプ・シェルビーに行った。「でもその母もトレーニングが始まって2カ月後に、死んでしまいました。戦地に行く前でしたけれど」と語る。

前回のボブ・佐藤さんと同期でイギリスのグラスゴーからフランスを経てイタリアの戦地に入る。「BARマン(ブラウニング・オートマチック・ライフル隊)」として、自動ライフルを持ち最前線を任された。17歳の男子には敵からの最初のターゲットになることが「エキサイティング・ライフ」だったと言う。

「戦争って皆が誤解している所があるけれど、人の殺し合いじゃないんだ。土地の取り合い、不動産屋みたいなもの」と自己の哲学を語る。戦争とは土地の奪い合いのために兵士が前進する。敵も前進するから見方は後進する。夜のうちに谷間を渡り低地を横切り、高地を占領して昼間に眠る。その繰り返しだ。そしてその間に負傷者が出る。「でも、442部隊は後進は決してしなかった」と誇りを持って付け加えた。

「第442連隊部隊(第100歩兵大隊・第442連隊:以下442部隊)は教養がある兵士が集まった部隊だった」とモリヒロさんが語るように、平均IQは全米でも1番高く、他の部隊のように文盲はいなかった。よく訓練されていた同部隊は前線で負傷者が出てもすぐ交代できた。442部隊が強かったため、敵のドイツ軍もエリート兵士を前線に当て、その結果、激戦を繰り広げたことは広く知られている。全米で最多、名誉勲章を含め1万8千個以上の勲章に輝くこの部隊は「皆から引っ張り凧」だった。

だが、同部隊が強かったもう1つの理由は、「皆が同じ目的で集まり闘う、という結束の強さ」にあったとモリヒロさんは言う。その目的とは、収容所に残してきた家族に自由を与えるため、日系人ということで差別され奪い取られた自由を取り戻すためアメリカに忠誠を誓ったこと。「だから仲間意識が強く、兵士全員が一つの家族のようなものだった。死傷者がいたら絶対に置き去りにはしなかった」と言う。

「ベイヨネットといって、鉄砲の先に18インチの刀をつけて『ゴー・フォー・ブローク=当たって砕けろ!(ハワイのスラングで賭け事で全財産を無くすまで戦うことからきている。第100歩兵大隊はハワイの日系人で構成されていた)』とか、『バンザーイ』とか一声に掛け声を上げて敵に向かって行くんです。敵だって鉄砲を持っているんだけれど、『ドイツ人は冷たい金属が嫌いだから頭を隠して縮こまる』と言われたことを信じてね」。

それは侍魂(サムライ・スピリット)なのかの問いに、「日本人の血のなかにある」と微笑む。

仲間の中には闘いたくない者もいた。「『しょうがない』から来てた人もいたけれど、僕は若くてバカだったのか、死ぬことなんて考えなかった。トラブルだらけでした」と告白。

最初の訓練で25マイルの行進の途中足が痛くなり、脱落。「トラックに乗ってろ」と言われ、そのままトラックで帰ってきて更に叱られたり、軍曹に向かって「もっと、ちゃんと教えてくださいよ」と言ってしまったり。「罰則としてBARマンにされてしまったようなもの。重さが21ポンドもするんですよ。普通の鉄砲は7ポンドから9ポンドなのに」。また、戦場にはカメラを持ち込んではいけないことになっているのに隠し持っていた。もし捕虜になった時、味方の様子が敵に分かってしまうからだ。

モリヒロさんの戦場生活の写真は楽しそうな場面が一杯。悲しい事実は記録に残していない。「前線に立つと体も神経も消耗してしまう。マラソンと同じです。2週間戦い、交代に休むんです。この写真は戦争が終り、イタリアで6カ月過ごした時のもの」と分厚いアルバムを見せてくれた。

「戦争に行ったばかりの時は、若さかバカさか、わくわくしていたけれど、終る頃にはひとつ学びました。戦争で人は死ぬんだということ。だから朝鮮戦争では戦場に行きたくなかった」と告白するモリヒロさんは、志願兵が出てくる1カ月前にその整理・受け付け係を申し出た。

「朝鮮戦争は目的がなかった。正当な理由のある戦争だとは考えられなかったから。それに第二次大戦はジュネーブ会議で決まったルールをしっかり守り、負傷者が出ると、白い布切れを振り、敵も味方も一斉に銃撃をストップするんです。衛生兵は安心して助けにいける。でも朝鮮戦争はめちゃくちゃだった」

「442部隊に入り、誇りに思っています。自分の人生の中で、あんなに興奮させられた、充実した時期を持てたことに感謝している。僕たちは自由のためという、ちゃんとした目的を持ってそのことのために力一杯、自分を投げ出して戦った」と回顧する。そして若者に国のために戦うことの大切さを伝えたい。現在彼らがエンジョイしている自由は、僕たちが戦争で戦い勝ち取った、その成果なのだから。

日本語学校の3年生でいたずらをして退学になってしまったやんちゃボーイ。「本当の僕はこうなんですよ」と言いながら被った野球帽には、金髪のポニーテールがついている。茶目っ気たっぷりの79歳のモリヒロさん。

「長生きするための秘訣はね、笑うことなんですよ」。人生で必要なことは、笑って楽しく生きること。それは自分のチョイスなんだということを、野球帽のしたから覗いた目じりの皺が物語っていた。

注:* ミネドカ:当時の一世、二世の発音のかな書き。現在の表記は「ミニドカ」だが、「ミネドカ」は単なる地名ではなく「収容所」を指し、彼らの特別な感情がこもっている。

 

*本稿は、2003年「北米報知」へ掲載されたもので、2021年1月24日再び「北米報知」へ掲載されたものを、許可をもって転載しています。

 

© 2021 Mikiko Amagai

100th/442nd Regimental Combat Team Europe World War II

このシリーズについて

1942年2月、日本軍が真珠湾を攻撃した2ヶ月後、故ルーズベルト大統領の発令9066のもと、約12万人の日本人、日系人が収容所に送られた。その3分の2はアメリカ生まれの二世達。彼らの生き様は主に2つに分かれた。「アメリカに忠誠を誓いますか」の問いに「NO」と答えた「ノーノー・ボーイ」と、強制収容所から志願または徴兵され「442部隊(日系人のみで編成された部隊)」または「MIS(米国陸軍情報部)」でアメリカ軍へ貢献した若者たちだ。高齢になりようやく閉ざしていた口を開いた二世の戦士達。戦争を、体を張って通り抜けて来た彼らだからこそ平和を願う気持ちは大きい。その声を13回に分けてシリーズでお届けする。

*このシリーズは、2003年に当時はまだ健在だった二世退役軍人の方々から生の声をインタビューした記事として『北米報知』に掲載されたもので、2020年に当時の記事に編集を入れずにそのまま『北米報知』に再掲載されたものを転載したものです。