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静かな戦士たち

ロバート(ボブ)・佐藤さん

「戦争で何したのって子供たちに聞かれても、戦争では兵隊をしていたと答えるしかない」と語るのはロバート佐藤さん。第2次世界大戦では442連隊の上級曹長を勤めた。多くの二世と同じ様に、何があったかは話すが、自身のこととなるとどう感じたかは語らない。

佐藤さんはタコマ市の南、ファイフで生まれた。戦争が始まると農業を営んでいた家族と共にピュアラップのキャンプ・ハーモニー(仮収容所)からミネドカ1収容所に移る。兄は志願して一足先に、MIS(軍事情報部員)としてミネソタ州キャンプ・サベージに行ったが、高校生の佐藤さんは卒業するためミネドカに残った。翌1944年には徴兵され、ミシシッピー州シェルビー軍隊教習所に向かったのは6月6日、ヨーロッパのD-Day(フランス・ノルマンディーに上陸の日。ドイツ軍を陥落、連合軍の勝利を意味する)だった。

2ヵ月ほどのトレ-ニングの後、佐藤さんはいきなり戦場に向かうことになった。スコットランドからフランスを経由し、トラックでイタリア入りをした。11月にはドイツのライン河から50マイルくらいのところで前線を張った。「そこはこのノースウェストの辺りと似ていて杉の木なんかが多いんですよ。切ってしまうと隠れる場所がなくなる。冬は同じ様に雨が多くてね、寒いんですよ」と当時を思い出す。

「Lost Battalion(ロスト・バタリオン)」として知られる、イタリアで敵に1週間包囲されていたテキサス部隊(第141連隊第1大隊)兵士211人の救出目的で送られた時は、442連隊から800人もの死傷者を出した。

「その背景には、政治的な動きがあったと思う」と佐藤さんは分析する。後に大統領に就任したアイゼンハワー連合軍最高司令官の友人だった当時の将軍ドールクェストは、意欲的な人物だった。昇級のために優秀な成績を必要としていたせいもある。442連隊はその好成績をあげるために、「使われてしまったようだ」と佐藤さんは言う。

この時の部隊は第100歩兵大隊と442部隊を統合させ、総勢4500人の大編成を作った。同総合連隊はこの時すでに10日間以上続けて戦っていたため、疲労が激しかった。ベルモント(フランス)で3日間程休息を期待していたが、将軍は1日半で出撃を命じた。ドールクェスト将軍は戦闘の経験はなく、前線に関して全くのしろうとであった。将軍というのは指令を出すポジションでもない。「彼の指令が沢山の死者を出してしまったと思う」。ビフォンテインという谷底の小さな町を占領するにあたっても、高地を確保すれば下の町まで行く必要はなかった。ところが町を占領する様に指令を出した為にドイツ軍に包囲され多くの負傷者を出したという。

当時、442連隊の死傷者が多いのに気がついていた人間もいる。ハワイの新聞社「ホノルル・スター・ブルテン(Honolulu Star Bulletin)」の記者、リン・クロストさんは、人種のかたよっている部隊は死傷者が多いことを紙面でとりあげた。第100歩兵大隊の第1号隊はすべてハワイ人で編成されていたのは周知のとおり。1992年発行、セルマ・チャング著「I Can Never Forget」に第100歩兵大隊・第442連隊の兵士と人種差別のことが語られている。

これに対して「我々を第1戦に使いたかったわけは、政治家の中に日系人の親戚がいるわけでもなく、一番危険な第1戦に出しても誰も反対するものがいなかったためだけではない。二世は闘志に燃えていた兵士たちだったから」と佐藤さんは言う。強ければ強いほど前進し、先駆けを務めることになった。「人種差別というより自分達の成果が逆に仇になったわけだ」。佐藤さんは米国軍隊側にもフェアでありたいが、この事実は二世兵士の名誉にかけても世に伝えたい事だと強調する。

二世の育った背景には「家族の恥になることはするな、それはコミュニティの恥でもあり、自分自身の恥でもある」という一世から伝えられた価値観がある。戦争に行っても同じことだ。その上、442連隊は他のアメリカ人の見知らぬ人が集まった部隊と違い、殆ど同じ収容所から集まっているのでお互いに知っている者同志の集まり、家族のように結束が固かった。一世の価値観を持った結束の固い二世が集まった部隊は強い。祖国アメリカへの忠誠を誓ったことは、現在までのアメリカ軍隊史上最も多い1万8千もの個人勲章を日系兵士が受けたことでも証明される。

1946年7月15日、当時のハリー・トルーマン大統領は第100歩兵大隊・442連隊をホワイトハウスに招待し、「あなたたちは敵と戦っただけでなく、この国の偏見とも戦った。そして、勝利を獲得したのです」と称えた事は知られている。「ワシントンDCで我々がパレードした時、『アジア人もアメリカのために戦った』ということを一般のアメリカ人に気付かせたのだ」と佐藤さんは誇らしげに語る。

トルーマン大統領の接見を受ける第442連隊。 (Harry S. Truman Library & Museum. Accession Number 65-3841)

「しかし残念な事は、これらの功績を残した二世兵士達よりも徴兵を拒んだ『No-No Boys』の方が脚光を浴びて、彼らが英雄扱いされていること」と佐藤さんは納得がいかない。

当時日系市民団体(JACL)のリーダーであったマイク正岡さんは、収容所で徴兵制度に従うように説いた。「『長い眼でみて、将来もきちんとアメリカ人として認められるためには(今後の世の中をかえるためには)アメリカ人として行動することが唯一の道だ』とマイクは言ったんです」。現在、軍人との婚姻が認められた(1947年)のも、外国人でも土地を所有できる(1952年)のも、また、88年にレーガン大統領が日系人に正式に謝罪し、収容所に行った日系人に対して賠償金補償を決定したのも、すべてこういった地道な努力の積み重ねだと佐藤さんは確信する。

「あれ(政府による謝罪と賠償金)は『No-No Boys』のために起こったことではありません。二世兵士達が戦った事で、証明されたのです。みなが『No-No Boys』だったら、実現しなかったでしょう」と発言するが、アメリカの歴史のこの部分は友人に「No-No Boys」もいるため、簡単には語れない心情も覗かせる。だが世の中を変えるには正当な、建設的な方法を選ぶべきだと説く。

「マイク正岡のことを悪く言う人がいるけれど、彼の薦めたこと(徴兵制度に従うこと)で我々の子供、その又子供たちが恩恵を被っている。現在の日系人のイメージが良いものとして伝わっているのも、それを作った一世の勤勉さと、二世兵士によるアメリカへの忠誠の証明が多大に関与していることを忘れてはいけない」

現在のシンセキ陸軍元帥も日系三世、ハワイ州出身のダニエル・井上連邦上院議員も二世である。「日系人がリーダーになる時代が来て、アメリカの歴史もずいぶん改善されたんだね」。佐藤さんは現在の状況を実感する。

母親から常に言われたこと「周りから認められるには他人の二倍の努力をしなければならない」と、普段多くを語らない父に「お前たちはアメリカ人なんだ。アメリカ人として行動しなければいけない」と、言われた言葉を肝に銘じてこれまで戦ってきた。「日本人である一世がアメリカ人の二世にこのことをしっかり伝えるには相当の信念と勇気が必要だったと思う」と父の苦悩も今なら分かる。

ヨーロッパに遠征中、フランスでたった一度だけ父からもらった手紙はすべて片仮名書き。「あの日遠征前に、ミシシッピー州の七面鳥農場に自分に会いに来てくれたことが嬉しかった」と書かれていた。近々戦場に行く事は伝えていなかったが、父は悟っていたらしい。あまり深く語り合わない父と息子でも気持ちはつながっていた。

「言ってみれば、あの時代、我々(二世兵士も「No-No Boys」も)はみな政府の犠牲者だった。だが、私はその間違いを認められる政府の勇気も重く見ている。周りの皆を教育する過程には時間がかかるがその努力は続けなくてはいけない。これが民主主義の進歩だ」と語る佐藤さんからは、アメリカ人としての正義感と父母から受け継いだ日本人の高潔さと、そして日系人としての誇りが感じられる。

注1: ミネドカ:当時の一世、二世の発音のかな書き。現在の表記は「ミニドカ」だが、「ミネドカ」は単なる地名ではなく「収容所」を指し、彼らの特別な感情がこもっている。

 

*本稿は、2003年『北米報知』へ掲載されたもので、2020年12月22日に再び『北米報知』へ掲載されたものを、許可をもって転載しています。

 

© 2003 Mikiko Amagai / The North American Post

100th/442nd Regimental Combat Team lost battalion no-no boy veterans World War II

このシリーズについて

1942年2月、日本軍が真珠湾を攻撃した2ヶ月後、故ルーズベルト大統領の発令9066のもと、約12万人の日本人、日系人が収容所に送られた。その3分の2はアメリカ生まれの二世達。彼らの生き様は主に2つに分かれた。「アメリカに忠誠を誓いますか」の問いに「NO」と答えた「ノーノー・ボーイ」と、強制収容所から志願または徴兵され「442部隊(日系人のみで編成された部隊)」または「MIS(米国陸軍情報部)」でアメリカ軍へ貢献した若者たちだ。高齢になりようやく閉ざしていた口を開いた二世の戦士達。戦争を、体を張って通り抜けて来た彼らだからこそ平和を願う気持ちは大きい。その声を13回に分けてシリーズでお届けする。

*このシリーズは、2003年に当時はまだ健在だった二世退役軍人の方々から生の声をインタビューした記事として『北米報知』に掲載されたもので、2020年に当時の記事に編集を入れずにそのまま『北米報知』に再掲載されたものを転載したものです。