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静かな戦士たち

岩本 義人(よしと)さん

岩本義人さん(写真:天海幹子)

「(戦後の)フィリピンでね、よく日本人に間違えられたんです。アメリカの軍服を着ているのにね。(二世兵士たちと)何人かでカフェーに入っていったら、『日本のお茶、いかがですか?日本の歌は?』って、ピアノに走って行っていきなり『軍艦マーチ』をひきだしたんです。その後は、『支那の夜』をね」と笑って語るのは岩本義人さん。米国諜報部員として日本人捕虜の登録のため、戦後まずフィリピンに送られ、続いて横浜に2年駐在した。もう過去の話だからか、淡々と笑顔で話す。

5人兄弟の4男、ワシントン州ワパト市に生まれる。両親は熊本県出身。父親は1900年代前半、熊本では林業に就きワシントン州に移住してから「高木のてっぺんを木から木へと飛び回りながら木を倒すのが得意」の技を認められ、10エーカーの倒木、伐採の仕事をもらう。「10エーカー、木を切り倒したら、5エーカーくれるって言われたんですが、その頃東洋人は土地を所有できなかった。それを知らないで騙されたんですよ」と語る口調には憤りは感じられない。

その後長男が生まれたこともあり、ワパトに移りホテルを長男名義で所有、経営する。利用者の多くは春、夏はアルファルファ・小麦収穫のメキシコ人、秋はりんご収穫の学生、冬は日本からの出稼ぎの男性たちだった。岩本さんがまだ幼少の頃父を亡くし、兄2人は熊本の母方の叔父に引き取られた。

太平洋戦争が勃発し、閉鎖したホテルを知り合いの市の職員に頼んだ家族はワイオミング州ハート・マウンテンの収容所へ向かう。その直前、妹は腎臓の手術で何者かに故意に管を塞がれて死亡。「それを知っていた担当の医者が病院を訴えた方が良いと言うんですよ。『私は今、日本を憎んでいるけれど医者である以上、このことはきちんと報告しなければならない』って。でも、母と兄は『ノー』と言いました。今それをすると、他の日本人、日本人社会に迷惑がかかる。これ以上状況を悪くさせたくないって」と言った母、兄の見解に岩本さんも同調している。

ハート・マウンテン収容所で入隊志願した岩本さんは、43年ミネソタ州のキャンプ・サベージの日本語学校で翻訳課に配属。45年、5、6万人と言われる日本人捕虜に尋問、通訳のためフィリピンに送られる。医療所では数少ない医者や看護婦が最悪の状況の中で仕事をしていた。

「患者が多く、栄養失調、重傷を負った者のひしめく中で、てんてこ舞いでしたね。全身火傷で口が塞がらないようにストローを入れ、辛うじて生きている兵士もいました。自分では看護婦と言っていましたが、一見従軍慰安婦とすぐ分かるような女性も借り出されて、手伝っていました。熊本出身と言うので、『雨あられ、降るがばってん、阿蘇の煙がきゃあ消えんたい』と言ったらびっくりしてましたよ」と思い出を語る。

しばらくして岩本さんはジャングルの中での仕事に切り替えられた。石切り場などで働いている日本人捕虜の視察・監督のためだ。フィリピン人に日本人に間違われて射殺されることもあるという、危険な仕事だった。

「アメリカ人も僕らのことを信用していませんでしたが、フィリピン人はもっと恐かった。彼らには僕らは日本人に見えるでしょう。サンタ・マリアという日本人びいきの町があって、その隣のカランバという村では村中の人たちに囲まれてしまって。みんな二世でしたから」

そのころ、ジャングル・ロットというカビに手足をやられ、マラリア、ポリオ(小児麻痺)にかかってしまった。頭から足先までほぼ全身麻痺してマニラに送られるが、治った後も長い間、偏頭痛に悩まされる。46年、3000人いた隊全員が日本に配置されることになった。「いつか一度、あそこに戻って墓参りしたいと思っているんですがね」と少し遠い眼をして話す。

「ポリオにかかった時、治るまでサンフランシスコに長期滞在するか、日本に行くか決めることになり、日本に行けばきっと楽な仕事をくれるのではないかと言われ日本に決めました」という通り、始めは皇居のガードやイギリスのドキュメンタリー映画撮影の手伝い、トルーマン大統領(当時の)から指示されたダム建設の視察・通訳などをした。「結局ダムには日本人が来なくて、ドイツ人のエンジニアと視察をしただけで終りましたけれど」

その後の東京裁判では裁判関係の専門用語が難しかったため、移動願いを出したところ、横浜の軍司令部裁判所で米国兵の裁判に関った。闇取引をした人、殺人、強盗、レイプ、家宅不法進入など、日本人に対する犯罪者の裁判だ。

軍人として3、4年軍隊に残るか、軍属として民間の仕事を1年するかの選択で後者を選んだ岩本さんは、任期が終りワシントン大学に入学するためアメリカに帰った。ところが偏頭痛に悩まされ勉学を断念。「給料は全部ガールフレンドに行っていたんです。帰ったら結婚しようと考えていました」という、後のチフネ夫人とはハート・マウンテンの収容所で知り合った。その後軍関係のサプライ、物流機関に就職し、引退まで33年半勤めた。勤勉、優秀を買われて表彰(Superior Accomplishment Award)される。

「僕はラッキーだったと思いますよ。病気も全て治ったし。日本で親戚にも会えて、とても温かく迎えてくれた。生涯忘れないでしょうね。僕のファミリーです。(日本軍として)マレーシアに行っていた3番目の兄とも会いました。あまり話さなかったけれど。彼は本当に日本の軍人のようでした。お互いに礼儀正しくしようと努めていたようです。もっとも彼はひどいマラリアにかかっていて、僕も治りかけだったし、二人でポーチの日溜りで休養していました」と懐かしそうに目を細めて語る。

戦後アメリカに帰った母はワパトのホテルを再開するが、火事に遭い、全てを亡くしてしまう。保険に加入していたが、保険会社の代理人は降りた金額を支払わずに自分のものにしてしまった。それでも、結局は訴訟も何もしなかった。

そんな控えめな母の言葉は、今も岩本さんの頭にしっかりと刻み込まれている。「癇癪(かんしゃく)をおこすな、人に寛大でありなさい、そして仕事に精を尽くしなさい」。日系二世はあまり感情を表さない。両親から受けついだ日本人の気質をアメリカの社会で共存するために、両方の文化と習慣に適合させながら生きてきた二世の生き方は「ピース・メーカー」と言う言葉がよく似合っていると、岩本さんとの対話で思った。

 

*本稿は、2004年『北米報知』へ掲載され、2021年10月9日に再び『北米報知』へ掲載されたものを許可をもって転載しています。

 

© 2021 Mikiko Amagai / The North American Post

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このシリーズについて

1942年2月、日本軍が真珠湾を攻撃した2ヶ月後、故ルーズベルト大統領の発令9066のもと、約12万人の日本人、日系人が収容所に送られた。その3分の2はアメリカ生まれの二世達。彼らの生き様は主に2つに分かれた。「アメリカに忠誠を誓いますか」の問いに「NO」と答えた「ノーノー・ボーイ」と、強制収容所から志願または徴兵され「442部隊(日系人のみで編成された部隊)」または「MIS(米国陸軍情報部)」でアメリカ軍へ貢献した若者たちだ。高齢になりようやく閉ざしていた口を開いた二世の戦士達。戦争を、体を張って通り抜けて来た彼らだからこそ平和を願う気持ちは大きい。その声を13回に分けてシリーズでお届けする。

*このシリーズは、2003年に当時はまだ健在だった二世退役軍人の方々から生の声をインタビューした記事として『北米報知』に掲載されたもので、2020年に当時の記事に編集を入れずにそのまま『北米報知』に再掲載されたものを転載したものです。