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紆余曲折の末、リージョナル航空の機長になった藤田尚弥さん

30歳を前に家族連れで航空留学

「もし、あの時決断していなかったら、今でも日本の空を飛ぶ飛行機を見上げて『あの時やってたら今頃あそこにいたかもなあ…』と心の中でつぶやいていたと思います」と話すのは、アメリカのリージョナル航空会社、スカイウエストエアラインズで機長を務める藤田尚弥さんだ。シニョリティー(社歴)が人事判断の基準となるアメリカの航空会社だが、藤田さんの同社でのシニョリティーの順番は、全社に現在5262人いるパイロットの中で1451番目。現在のようなパンデミックの中にあっても「この会社にいる限りおそらく解雇の確率はほぼないですし、今でもかなりの便数を飛んでいます。パンデミックの前、他の航空会社に転職すればいいのに、と友人に言われたりもしました。しかし、そうすればシニョリティーが下がってしまい、またやり直しです」と藤田さんは話す。彼がそれだけ仕事の安定にこだわるのは、航空業界も含めて世界的な不安定期であること以前に、パイロットになりたいという夢を実行に移してから、今に至るまで紆余曲折の道のりを歩んで来たからだ。

「子どもの頃からの夢だったパイロットには医者や弁護士になるような賢い人しかなれない、と諦めていたので、大学を出て名古屋でサラリーマンをして結婚もして子どもも生まれました。しかし、ある時、飛行機の教官になるという知り合いのフィアンセの年齢が31歳だと聞いて、当時28歳だった自分は、『だったらまだ遅くないのでは』と思い始めたのです」。そうなると、航空留学が頭から離れなくなった。そして、留学経験があるオーストラリアを目的地に定め、妻を説得し、1歳になる長男と二人目をお腹に抱え、家族で海を渡った。現地のフライトスクールで学び、その学校に教官として就職する約束を取り付けたものの、1999年中頃、オーストラリアの航空業界を不況が襲い、約束は白紙となってしまった。そこで、「ITバブル」の時代を迎えていたアメリカに目を向け、一旦日本に帰国して学生ビザを取得してから、家族と共にサンディエゴに向かった。子どもは2人に増えていた。

サンディエゴのフライトスクールを修了後はその学校で最低賃金で働いた。「2001年の5月に労働ビザを取得しました。ただ、福利厚生がないまま、3歳と4歳の子どもを抱えて、アパート代と食費を払うのがやっという苦しい生活が続きました」。一方で、藤田さんの本命は別のところにあった。ロサンゼルス郊外のベーカーズフィールドの全日空のパイロットを養成するための訓練施設の教官として就職することだった。しかし、後少しで必要な飛行時間に達するタイミングでセプテンバー11が起こったために、全日空の訓練施設は採用を停止してしまう。

パイロット養成の教官として就職、まさかの全員解雇でエアラインへ

同施設がようやく採用を再開したのは2年後、2003年11月になっていた。書類審査、面接、実技テストに心理テストから構成される採用試験を受けた藤田さんは無事に合格。「全日空と言ってもアメリカの施設ですから、採用される人材はその多くがアメリカ人です」と藤田さんが言うように、60人ほどの教官の中で日本人は7、8人だったと振り返る。2004年1月、全日空の訓練施設の教官として晴れて勤務開始。グリーンカードも取得した。その頃には子どもたちも高校生になり、ベーカーズフィールドで自宅を購入、藤田さんは「エアラインのパイロットになりたかったが、ここで教官として全うしよう」と覚悟を決めていた。しかし、想定外の出来事が起こった。

「2013年の終わりに、その施設が翌年の3月で閉鎖されると言い渡されたのです。つまり、全員解雇です」。それまでの藤田さんの「教官として勤め上げよう」という覚悟は見事に打ち砕かれた。しかし、落ち込んでいる暇はない。「転職の申請書を40件以上出しました。しかし、どこにも引っかかりませんでした。ピストンエンジンの飛行機の飛行時間ばかり多くてジェット機の経験がないのがネックでした。こうなったら、教員免許を生かして、日本に引き揚げて教師をするしかないかもしれないとまで追い詰められました。

しかし、最後の最後に、3分の1以下にまで減ってしまう収入減ではありましたが、リージョナルのエアラインに採用されました。そこで1年だけ頑張って次にステップアップするからと妻の理解を得て入社したのです。実はその会社に今も勤務しています」。同じ会社で働き続けることでシニョリティーがアップし、入社2年半余りで機長にも昇格した。給与も訓練施設時代のレベルまで上がった。スカイウェスト航空を選んだのはアメリカで最大のリージョナル航空と言うこともあるが、一番の理由は48年の会社の歴史の中でどんな状況においてもパイロットを一切一時帰休や解雇をしたことがない、安定した会社だからだそうだ。

「息子たちは2人とも大学を卒業しました。アメリカで転職先がなければ日本に引き揚げることも考えていましたが、もし帰国していても、彼らは日本語学校に行っていなかったのでインターナショナルスクールに転入するしかないかなって思いましたが、そのような費用を払うお金はとてもないのでどうしようか考えていました」。子どもたちに日本語学校に行かせなかったのは、あえて日本人コミュニティーを避けていたからだとも。「サンディエゴでは、子どもだけでなく妻にも日本人同士の交流が必要かもしれないと、子どもたちを毎週土曜日の午前中にある日本語補習校に通わせ始めました。しかし、そこで感じたのは、日本を出てからも日本的な、皆と一緒でないといけないというような価値観でした。生活レベルがあまりにも違う生活を送っていた私たちは正直合わせることもできなく参ってしまい、日本語学校はすぐにやめてしまったのです」。

グローバルな視点から日本を見る

藤田さんは現在51歳。日本を出てから22年が経過した。このままアメリカの空を飛び続けるのだろうか。「数年前から妻が日本の生活が老後はいい、と言うようになりました。これまで僕の夢のために随分辛い思いをさせてきたので、今度は日本に帰って彼女に好きなことをさせてあげたい。そして僕自身は日本でも何かしら航空関係の仕事に携われたないいなと思っています。飛ぶ仕事があるに越したことないですが、日本では年齢的にも資格的にもなかなか難しいだろうと思うので、例えば、飛行機仲間が集まるバーを開くというアイデアも妻と話していて、そうなったら空港がある調布とか大阪の八尾が場所としてはいいんじゃないか、と」。

それでもまだ日本に引き揚げることを最終的に決断したわけではないと話す。「今の仕事が大好きなんです。ロサンゼルス空港から120マイル離れた自宅から、6時スタートの勤務に間に合わせるために、朝の2時に起きて真っ暗な3時頃に家を出ます。それでも少しも嫌だと思ったことはありません。また、今日も空を飛んで、あの素晴らしい景色を目にすることができるのだと思うだけでワクワクするからです」。

最後に「藤田さんは何人ですか?」という問いをぶつけた。「空を飛ぶ機会を求めてアメリカに来たわけでアメリカ人になりたいというわけではありません。でもアメリカで生活して日本を外から眺めたことで日本のことがよく分かるようになりました。敢えて言うなら、グローバルな視点から日本を見られる日本人、でしょうか」。藤田さんは丁寧に言葉を選びながらそう答えた。

 

© 2021 Keiko Fukuda

pilots Shin-Issei SkyWest Airlines