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1999年渡米、映画監督・プロデューサー・女優・フリーアナウンサーの曽原三友紀さん

故郷の宮崎牛を世界へ

映画『はんなり』『折り鶴』の監督兼プロデューサーである、ロサンゼルス在住の曽原三友紀さん。『はんなり』では日本のおもてなしの心を描き、『折り鶴』では日本の思いやりを、共に映像作品を通じて世界に紹介した。現在、手がけているのはアメリカが日本に友情の証として送った青い目の人形に対するお返し、「答礼人形」をテーマに掲げた新作映画だと言う。

私は『はんなり』が完成された時に取材したことがあったが、その後、曽原さんの名前を頻繁に聞くようになったのは、「宮崎牛をオスカーのガバナーズボウル(アカデミー賞授賞式後のパーティー)のメニュー食材導入に成功した「宮崎牛大使」としての目覚しい活躍ぶりを通してだった。オスカーは確かに映画の祭典だが、監督とプロデューサー業の曽原さんがなぜ宮崎牛?との素朴な疑問が湧いた。本人に質問すると「きっかけは宮崎の口蹄疫問題でした。私の出身地の宮崎県は和牛の子牛や種牛の産地です。しかし、一時期の口蹄疫問題で存続が危ぶまれた宮崎牛と地元のために何かしたいという気持ちに駆られました。そこで思い付いたのが息子の学校の保護者同士として知り合いだったウォルフギャング・パックさんのことです。彼はご存知のようにガバナーズボウルを統括するシェフです。学校で会うと気軽に喋る間柄だったこと、またすでに彼が経営するステーキハウスのCUTでは宮崎牛を取り入れていたことなど、オスカーのディナーに宮崎牛を採用してもらえる可能性はきっとあるはずだと思いました」。

しかし、交渉は順調に進んだわけではなかった。ウォルフギャングさん本人との具体的なメニューの会議にこぎつけるまでに1年近く掛かった。曽原さんは諦めることなく何度も連絡を取り続けた。「彼はすでに宮崎牛の味や品質を知っていたので、文面では地元愛を強調しました。アメリカに住む私が故郷の宮崎のために貢献したいと言う素直な気持ちを訴えました。口蹄疫について、また宮崎県が和牛の種牛と子牛の産地であることも説明しました。

宮崎牛を救わないと日本の和牛は死に絶えてしまう、まさにSave Miyazakiの必要性を熱くアピールしたのです」。曽原さんの粘り強い交渉と、ウォルフギャングさんのレストランの総料理長を務めていた矢作シェフのサポートもあって、やっと実現したミーティングではすでにウォルフギャング側は宮崎牛の採用を決めていたそうだ。こうして、2018年、2019年、そして2020年と宮崎牛及び霧島焼酎は3年連続でオスカーのガバナーズボウルでハリウッドのセレブリティーたちの舌を楽しませ、2020年には宮崎産の緑茶なども採用されたということだ。

2020年のアカデミー賞のガバナーズボウルでの曽原さんとウォルフギャング・パックさん。


次作テーマは答礼人形

曽原さん自身は「私は日米の架け橋として、日本文化の一部である食も、エンターテインメントも同様にアメリカをはじめ世界に紹介していく活動にこれからも携わっていきます」と語る。それでは、曽原さんは出身地の宮崎県都城市から、どのような経緯でロサンゼルスにたどり着いたのだろうか。本人に振り返ってもらった。

「アメリカに移住したのは1999年、最初の夫がアメリカ人だったので、彼が働くニューヨークに引っ越して来ました。それまでは日本で局アナを経てフリーのアナウンサーとして活動していました。さかのぼると、もともとバレエ一筋で将来の夢はミュージカル俳優なることでした。膝の故障でその夢はアナウンサーに変わるのですが、移住で渡米する数年前には2カ月ほどダンス留学をしたこともあります。ニューヨークに引っ越してからは、社交ダンスに熱中して、ダンススクールを開校しました」。

ニューヨークでダンスの指導や自身のコンペ出場に明け暮れていた2001年、あの同時多発テロ事件が起こる。だが、9月11日当日、曽原さんはニューヨークではなくヨーロッパにいた。「ニュースでペンタゴンに飛行機が突入した映像を見ました。そしてワールドトレードセンターでの映像を見た時には、これは新作映画の予告編か何かかと思ったほど、現実のものとして受け入れることが難しかったです」。ニューヨークに戻ってからは被災者支援のダンスのチャリティー公演を開催するなどしてボランティアにも努めたそうだ。

折鶴を寄贈した広島での曽原さんと子供たち。他に ホワイトハウス 、長崎、真珠湾にも寄贈。

その後、離婚を経て2003年、曽原さんは拠点をロサンゼルスに移した。「心機一転したいという気持ちでした。日本に帰ることはいつでもできるけど、もっとアメリカで英語の上達も含めて、自分にできることに挑戦していこうと、アメリカに残ることにしたのです」。ロサンゼルスでは現配偶者と出会い、母になった。そしてエンターテインメントの首都である同地で映画業界に進出し、前出の『はんなり』を完成させた。続いて、白血病で亡くなった被爆者、佐々木禎子さんの実話をモチーフに平和のメッセージを込めた映画『折り鶴』を2015年に世に送り出した。

禎子さんの遺族は、病床で禎子さんが実際に折った折り鶴を「平和の象徴」として、ビバリーヒルズのミュージアム・オブ・トレランスとロサンゼルスの全米日系人博物館に寄贈したが、その際の橋渡しとスポンサーを務めたのも曽原さんだ。

そして3作目となる映画のタイトルは『フレンドシップ縁ドール』。1927年、日米の対立を懸念したアメリカ人宣教師のギューリック博士が全米に呼びかけて集めた人形1万3000体を日本の子どもに送った。この返礼として、渋沢栄一を中心とした日本国際児童親善会が日本全国に呼びかけ、市松人形58体をアメリカに寄贈したのだ。この一世紀近く前の日米の交流をモチーフにした新たな作品が曽原さんの次作となる。「(人形の寄贈は)カリフォルニアに移民した日系人への人種差別を救うためにスタートしたプロジェクトということで、後世に伝えなければと血が騒ぎました」と語る。今後資金集めを開始し、渋沢栄一が日本で1万円札の紙幣になる2024年公開を目指している。

最後に16歳と13歳の二人の子どもの母親である曽原さんに、日系アメリカ人二世となる彼らに望むことを聞いた。「日本人としての誇りを大切にしてほしいので、本当の日本に触れてもらうため、幼い頃から何度も、ルーツの地である日本に連れて行きました。でも今はグローバルな時代ですから、人種によるカテゴライズはしたくありません」。日米の架け橋として奔走する母親の姿は、子どもたちのまぶたの裏にしっかりと焼きついているに違いない。

公式サイト:www.sakuraproduction.com

 

© 2020 Keiko Fukuda

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