家を守ってくれた隣人:メアリー・マッカンバー
フロリン在住の日系3世レスター・オオウチダさんも戦時中、非日系米国人に助けられた一人だ。
オオウチダさん一家も戦時中、強制収容所に送られた。しかし、隣人が留守宅を管理してくれたおかげで、収容所から戻ってきても家はそのままの状態で残され、元の生活に戻ることができた。
「私たちは良い隣人に恵まれ、家を失わずに済みました。メアリー・マッカンバーが守ってくれたのです」
強制収容所に送られる前からオオウチダさん一家と隣人のマック、メアリー・マッカンバー夫妻はとても仲の良い友人だった。特に妻のメアリーさんは毎晩オオウチダさんの家に遊びにきては一緒に団らんを楽しんでいたという。
「夕食の後、メアリーはいつも私たちの家に遊びにきて、夕飯の残ったお米に砂糖とクリームを加えたデザートを作って食べていました」
毎晩オオウチダさん一家の家に遊びにきていた社交的なメアリーさんとは対象的に夫のマックさんはとても良い人だが物静かで、隣人宅に遊びに来ることはなかった。
しかし、一度だけ訪ねて来たことがあった。それは一家が強制収容所へ送られる前の晩のことだった。マックさんはオオウチダさんの家に来てこう告げた。
「何か必要な物があったらいつでも手紙で知らせて下さい」
「とても静かでほとんど話さない男性でしたが、わたしたち一家のことを気遣い、心から私たちの行く末を心配してくれていたのが分かりました」
そしてオオウチダさんは5歳の時、強制収容所に送られた。
強制収容所にいたおよそ3年半はオオウチダさんがまだ苦労を感じる年頃ではなかったことが幸いした。当時高校生だった年長の兄は収容所の食事も口に合わず、収容所での生活がまったく馴染めず苦労したという。
収容されていた3年以上の間、メアリーさんはオオウチダさん一家の家を近所の牧師に貸し出し、その家賃収入のすべてを強制収容所にいたオオウチダさんの父に毎月送っていた。そして一家を心配し、時折手紙も書いて収容所に送った。
メアリーさんは、日系住民のことを悪く言う非日系米国人がいるとこう言い返していたという。
「白人のクズよりずっとマシよ!」
かつてあった日本人町:フロリンの変容
戦前、フロリンにはおよそ250世帯の日系住民が暮らしていたという。その多くがいちごや葡萄などを栽培する農家だった。オオウチダさんの父ハロルドさんはフロリンで収穫されたいちごなどの農作物を各地に配送するビジネスで成功を収めていた。
ルーズベルト大統領の大統領令に伴い、1942年10月にハロルドさんと妻エディスさん、そしてレスターさんを含む5人の子どもたちはジェローム強制収容所に収容された。44年6月にジェロームが閉鎖されると、一家はアリゾナ州のギラリバー強制収容所に収容された。そして45年8月にフロリンに戻ってきた。
「8歳半の時に収容所から出てきました。グレイハウンドに乗ってフロリンに着くと、同乗していた女性が泣き出したのを今でも覚えています」。やっと帰れたことで、こみ上げてくる思いがあったのだろう。
しかし、日系住民にはその後も苦労がつきまとう。
「メアリーのおかげで私たちの家はそのままでした。なかには戻ってくると家が損傷していた日系住民もたくさんいたのです」
当時は日系住民に対する偏見があった時代。「僕の年長の兄はエルグローブ高校に入学したとき、差別がひどかったそうです。高校時代、白人の友達がひとりも出来なかったと言っていました」
収容所から戻ってくるとレスターさんの父ハロルドさんは戦前営んでいた事業を再開しようと奮闘した。しかし戦前の頃と同じようにはいかなかった。「父は戦前、農作物の運送用として20台ほどトラックを所有していました。しかし終戦後は2台になってしまった。トラックが10台になるまで事業を拡大することはできたが、戦前のような繁栄を取り戻すのは決して容易ではありませんでした」
それでも父ハロルドさんは懸命に働き、戦後も事業を成功させ、54年頃にはフロリンに新たな家を建て一家は引っ越した。
フロリンの日系社会で問題が起こるとすぐに駆けつけ、弁護士と話し合うようなコミュニティーリーダーだった父ハロルドさんだったが、戦後の日系人を取り巻く環境には後世まで苦労し、59歳で亡くなった。
一方、レスターさんの母エディスさんは終戦後、日本の人々が貧しかったと聞き、缶詰食品などを日本にいる親戚に送っていたという。「郵送自体はできましたが、缶詰は重いので費用は安くなかったはずです。自分たちも苦しかったのに日本の親戚のことも心配していたのです」
終戦後、かつてフロリンにいた日系住民は家を失うなどしてフロリンから離れ、南カリフォルニアなど各地に散っていった。今では日系住民が使った建物こそ残っているが、かつての日本人町は消えてしまった。
まるでわが子のように
「収容所から戻ってきても僕と弟はよくマッカンバー家に遊びに行き、一緒にテレビを見ていました」。戦後も両家の友情は続いた。
実はオオウチダさんの名前「レスター」はマッカンバー夫妻の亡くなった息子の名前からつけられている。
「メアリーは私が生まれた時、私の両親に『亡き息子の名前をこの子につけて』とお願いしたそうです」。メアリーさんにとって、オオウチダさんは一家の子どもたちの中でも一番のお気に入りだったそうだ。
メアリーさんが亡くなったのは70年代のこと。オオウチダさんも葬儀に参列した。葬儀に来ていたのはメアリーさんを知る非日系米国人ばかり。オオウチダさんと姉だけが日系人だった。
しかしその場にいた人々はオオウチダさんがメアリーさんと仲が良かった日系家族の子供だということがすぐに分かったそうだ。「おそらくメアリーは可愛がっていた僕のことをほかの人たちにも話していたのでしょう。みんなすぐに私がその子だと分かったようです」
誰もが日系住民を差別する中、彼女はわが子のようにオオウチダさんを可愛がり、家を助け、そして真の友情を育んだ。
「あの当時、排日感情の高まりにもかかわらず、正義と勇気をもって私たちのために立ち上がった人々がいた。私たちは決して忘れない、彼らの親切を」
編集後記
ここではすべてを書ききれなかったが、戦時中、日系住民を助けた多くの非日系米国人の姿があった。
今年は元コロラド州知事カー氏の没後70周年を迎える。カー氏は日系人を擁護したことで42年の連邦上院議員選では敗北したかもしれない。しかし、正義を貫いた彼の功績は、日系人だけでなく今を生きる人々からも感謝と尊敬をもって後世まで語り継がれている。このことは彼の信念が勝利したことを意味するのではないだろうか。
今年11月には大統領選を控え移民政策も焦点となっている。過去の教訓はどのように未来に生かされていくのか、見守りたい。
取材協力及び参考文献
藤崎一郎元駐米大使
ダグ・アーバー南加日米協会会長
アダム・シュレイガー 池田年穂訳「日系人を救った政治家ラルフ・カー」―信念のコロラド州知事(水声社)
河村幽川編「国府田敬三郎伝」
パシフィック・シチズン
フロリン歴史協会
ゴー・フォー・ブローク全米教育センター
国立アメリカ歴史博物館
デンバー公共図書館
* 本稿は、『羅府新報』(2020年1月3日付)からの転載です。
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