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一世の記録を拾い集めた男 ~加藤新一の足跡をたどって~

第3回 全米を走破し1世を訪ねる

加藤新一が「編者」となっている「米國日系人百年史」(1961年12月刊行)は、アラスカ、ハワイを除く米国本土の日系人の足跡を追ってまとめている。太平洋岸など日本人が多く移住し活動してきた州は、州ごとに多くのページを割き、カリフォルニア州だけは北部、中部、南部に分けて紹介している。

その他は「中央北部三州」や「中部大西洋岸諸州」、「南部沿岸諸州」のように地理的なまとまりでひとくくりとし、その中で州や地域に分けて紹介している。細かくみると、「ケンタッキー州」と「テネシー州」については触れていないが、日本人の足跡がこの時点で見当たらなかったのか、取材できなかったのかは不明である。

その他については、すべて某かの記載があり、具体的な日本人の人名も多い。掲載の基準は明らかではないが個人史についても「紳士録」として掲載され、人名数や関係する事業所として巻末の索引に並ぶ数はおよそ1000におよぶ。

また、日本人の活動内容についても説明だけではなく、さまざまなエピソードを随所に織り込んでいる。これだけのものをどのように取材、編集していったのか。こうした場合、序文やあとがきにあたってみるのが常なので、前後をみると1429ページから「あとがき 編者 加藤新一」として、3ページにわたって出版の目的、刊行までの経緯などが書かれていた。このなかで何よりも私の目をひいたのは次のくだりである。


9ヵ月をかけて4万マイル走る

「斯かる意図のもとに、一九六〇年六月以来九ヵ月、四万マイルに及ぶ全米各州を自動車独走の取材旅行し、また編集を続けながら各州各地を歴訪し『誰かがやらねばならぬいい出版をやってくれる』と各地有志の共感と御協力を得、百年祭記念出版を翌々年まで延ばし度くなく、至る処で明言したように一九六一年秋には完成するよう新日米社編集部や留学生河合、金井、桑原三君にも手伝って貰い、日夜体力のつづく限り作業をつづけた。しかし何分にも広範囲にわたり、普通三ヵ年は優に要する取材、編集、印刷の大業を僅か一年半で完成することは、われながら二度と繰り返しえぬ昼夜作業の連続であった。」

これだけの内容と分量の本づくりを、取材から印刷まで一年半で終えたというのは、かなりの離れ業である。確かによく見れば、紙面の編集・デザインには工夫の余地はあっただろうし、文章についても推敲の必要や校閲漏れはいくつも見受けられる。だが、それを差し引いてもなお相当な労力を要したと想像できる。

さらに、おなじく取材をする者として、私がより目を見張ったのは、ひとりで9ヵ月間にわたりあの広いアメリカを自動車で走り回ったという事実である。いくら車社会のアメリカとはいえ、州をまたぐ高速道路(インターステイト・ハイウェイ)の建設が本格化するのは1956年に連邦補助ハイウェイ法が成立してからである。加藤が取材をはじめた1960年のわずか4年前だ。

道路事情も今日と違い、ただ全米をくまなく見て回るだけでも9ヵ月はかかるかもしれない。それを日本人の取材をしながら回り、合計4万マイル(約6万4000キロ)を走破したという。アメリカの東西横断は、都市間にもよるがざっと3000マイル前後のようだから、4万マイルの走行がどれほど大変かがかわかる。


加藤がフロリダを訪ねた記録が

だが、果たしてほんとうだろうかと疑いたくもなる。なにしろ残念なことに取材の行程については具体的に明らかにされていない。しかし、偶然にも確かに加藤が全米を走り回っていたということを私は知ることになった。

20世紀の初めに南フロリダに誕生した日本人村(大和コロニー)について調べていたときのことだ。コロニーは戦前に消滅するが、以後もずっと現地にとどまり最後は広大なな土地を地元に寄付して有名になった森上助次という人物が、日本の親戚に送り続けた膨大な手紙を読んで整理している時、加藤新一の名前を見つけたのだ。

1961年2月23日付で、姪にあてた手紙のなかに次のように書かれていた箇所があった。

「……昨日、思いかけない三人の同胞の訪問をうけた。夕方、暑いので素裸でカウチに寝転び新聞を読んで居たので(※不明ヵ所)驚いた。同胞に会うのは全く久し振りで、遂、英語で話す。馴れぬ日本語よりはこの方がずっと楽だ。一人は加州羅府新日米新聞社の主幹加藤新一氏だ。」

「今度は日米修交百年祭を記念する全米日系人発展紳士録を発行する事になった。就いては酒井氏の写真を掲載したいので暫時、拝借したいと……」

このなかの酒井氏というのは、大和コロニー創設時のリーダーで、フロリダで亡くなった酒井醸のことである。手紙の日付からして、ちょうど加藤が全米を取材している時と合致するし、「百年史」のサブタイトルである「全米日系人発展紳士録」の発行のためとあるので、加藤が南フロリダまで森上を訪ねてきたことがわかる。

「今度は……」とあることから、以前にも手紙か何かで尋ねたことがあったのかもしれない。いずれにしても、加藤はロサンゼルスからもっとも遠いといってもいい南部フロリダに車でやってきて森上にインタビューをしたのだろう。事実「百年史」のフロリダ州の章には、森上の写真とともに「大和コロニー」について詳しく触れている。


誰かが後世に残さなくては   

ここから類推するに、その他の州についても同様の取材をした結果が反映されているのだろう。まさに足で書いた記事といっていい。とはいっても、もちろん多くの史実は短期間だけの取材でまとめられるものではない。「(本書は)古くから残された種々の参考史書を基に、それ以外の地域、或は以後の資料を加え編纂したもので……」と、あとがきにあるように、それ以前にアメリカで発行されたアメリカの日系人の歴史、活動についての出版物が参考資料に使われた。そのほとんどが戦前に発行されたものである。

「米國日系人百年史」の前に加藤が編集を手がけた「南加州日本人七十年史」

参考書の一つが、1960年9月に南加日系人商業会議所が出版した「南加州日本人七十年史」である。加藤は、ここでも「編集主任」をつとめたが、この時の経験から先人の残した歴史の資料が貴重であることを痛感し、南加州という限られた地域の日系人の歴史にとどまらず、全米へと視野を広げるべきだと考えた。

「戦後は米本土の殆ど全域に及ぶ米国日系人の歴史を、今にして誰かが綴り残さなくては、日本民族が、この北米大陸に苦闘を重ねて築いた貴い『百年』の歴史が湮滅することを恐れた。」

「あの戦時下に、敵性外国人として史上空前の苦難を体験して在米日系人が歩んだ荊の記録、その後に起った戦後の変化と再発展に及ぶ貴い史実は、未だ全米的規模に於て何人によっても編纂されていない」

と、いうのが「百年史」発刊の主たる理由である。とくに「従来収録されたことの無い辺境の地域まで含めて一巻とし(元々二巻にすべき内容のもの)後世に残し得ることである。」と、自負しているように、全米にわたって取材をしたという点の重要性を強調している。

また、「在米日系人社会にも将来誰か後継者が綴るであろう英文の『在米日系人史』資料として、一世から次代へ遺産の形で残すということを主眼にした。」と、将来的な資料価値を期待している。

あとがきの日付は、発行からわずか半月前の、「一九六一年一一月三〇日」となっている。この後にささやかに付け加えるように加藤は次の一文を添えている。

「偶々『感謝祭』の日、この大業を全うするための健康を与えられた天と亡き父母に感謝を捧げつつ——」

(敬称略)

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© 2020 Ryusuke Kawai

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このシリーズについて

1960年前後全米を自動車で駆けめぐり、日本人移民一世の足跡を訪ね「米國日系人百年史~発展人士録」にまとめた加藤新一。広島出身でカリフォルニアへ渡り、太平洋戦争前後は日米で記者となった。自身は原爆の難を逃れながらも弟と妹を失い、晩年は平和運動に邁進。日米をまたにかけたその精力的な人生行路を追ってみる。

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