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「シェフになるまで諦めない」:唐揚げ専門店「ピクニコ」オーナー八木久二子さん

「あなた26歳でシェフになんてなれるわけがない」。元夫が言い放った言葉が彼女の闘志に火をつけた。そして心に誓った。「私は自分が『シェフだ』と言えるようになるまで絶対に諦めない」と。ロサンゼルス・ダウンタウンにある複合施設「RAW DTLA」に昨年12月にオープンした唐揚げ(フライドチキン)専門店「Pikunico(ピクニコ)」。そのオーナーの八木久二子さんは日本では元銀行員。料理などしたこともなかった彼女がアメリカで良き出会いに導かれ、有名店での修業を経て、自らのレストランを開店した。LAで頑張る女性のひとり八木さんにメニューへのこだわりや開店までの経緯など話を聞いた。

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八木さんは2012年末、有名シェフ、デビッド・マイヤー氏とともにセンチュリーシティーにあるモダン・カリフォルニア料理レストラン「ヒノキ・アンド・ザ・バード」を開き、シェフとして和のテイストを取り入れた料理を提供し話題をよんだ。

しかしビジネスパートナーとの方針の違いからマイヤー氏が退くと、後を追うようにして八木さんも14年、同店を去った。

4年後、新たなビジネスパートナーを見つけ2018年12月3日にオープンしたのがピクニコだ。目標は高級料理店ではなく、1週間に1度来られるようなレストラン。クオリティーの良い料理を手頃な価格で提供したいとの思いから始まった。

「どんなレストランにしようかと考えていた時、頭に浮かんだのは小さいころに祖母に連れて行ってもらった唐揚げ屋さんと、ヒノキ時代に毎週来ていた常連のお子さんがいつもオーダーしていた唐揚げ。唐揚げは気取らず食べられるし、揚げ物を家で作りたくない人も多い。『だったら私が作ればいい』と思ったのです」

客目線の立地を重視していた八木さんにとって現在店を構えるROW DTLAはカリフォルニア州でディズニーランドに次ぐ大きさの駐車場を完備する。訪れた人がパーキングに困らず、バリデーションを提供できるのも気に入った。

客層は日本人だけでなく当地のアメリカ人も多く、メニューにも工夫をこらした。唐揚げとフィンガーリングポテトのフライまたはおにぎりのセットのほか唐揚げのサンドイッチも用意。「日本の唐揚げではなく、『アメリカと日本の唐揚げのハイブリット』」と称す。

アメリカ人が大好きなサンドイッチにも日本の要素をふんだんに取り入れた。味噌と蜂蜜のペーストで作った自家製「味噌ジャム」をパンに塗り、ハラペーニョは醤油で酢漬けに。そこに唐揚げとカリフォルニアならではの野菜がたっぷり加わる。

野菜がたっぷり入った唐揚げのサンドイッチ。パンには消化を助けるウコンの粉が練り込まれている。

揚げ物は消化に時間がかかるため、消化を助けるショウガやウコン(ターメリック)を使用。特別注文のパンの中にはウコンの粉が練り込まれ、パンを黄色く色づかせる。おにぎりにも削ったショウガとニンニク、オリーブオイルが入っており、風味豊かな味わいが残る。

唐揚げを揚げる油は米油100%。「米油を使うことでもたれず後味もよい。その日の夜でもご飯が食べられるようにしたかった」と八木さん。カラッと揚がった唐揚げはグルテンフリー。中はジューシーで食べるほどに口の中に日本のエッセンスが広がる。

3種類あるサラダも定番のコールスローやポテトサラダを日本風にアレンジ。さらに一品キューカンバーサラダもメニューに加えた。

ドレッシングには米酢やごま油を使い、マヨネーズではなくごまペーストでクリーミーさを出した。

こうした料理をピクニックしているような気分で食べにきてほしいとの思いからピクニックと自身の名前「クニコ」を組み合わせピクニコと名付けた。

「可愛がってくれた祖母は週末お惣菜屋さんの唐揚げを買ってくれた思い出があります。無償の愛をくれた祖母のように私も料理を通して、誰かに幸せになってほしい。『家族でまた来ようね』と行ってもらえるような店にしていきたい」と八木さんは力を込めた。

唐揚げ3種の盛り合わせとおにぎりのセット(左)とキューカンバーサラダ。


日本では元銀行員、料理経験ゼロ、LA
の有名店で料理長まで昇進

アメリカ生活16年目の八木さんは日本では銀行員だった。米国人の夫との結婚を機に渡米したが、文化の違いや英語の壁から1年後に別居。周囲の反対を押し切り結婚した手前、日本には帰れなかった。

当時、車の運転が出来なかった八木さんは、早速ビーチバイクに乗って仕事探し。日本食レストランの給仕の仕事が見つかり生活していたが、ふと不安が頭をよぎった。「今はチップで生活できるけど、私40歳になったらどうなってしまうのだろう」。「これだ!」と思える何かがなかった。

「銀行員時代も、銀行のマニュアルを暗記することに時間を費やし試験を受けて昇格しようとみなが必死に頑張る。でも試験を通って偉くなっても自分のためになっている感じがしなかった。クリエイティブなことを言えば嫌がられるし、長年にわたる銀行のマニュアル以外のことをしてはいけない世界。私はそういうのがまったく合わなかった」

銀行員時代と同じように情熱を感じられぬまま過ごしていた矢先、調理場が目についた。「おいしい料理が作れるようになれば、世界のどこに行っても仕事が見つかる。しかも料理人にはクリエイティブな発想が求められる。その時『料理人になろう』とひらめいたのです」だが料理学校に入るお金はない。八木さんは本屋に行きレストラン格付け本「ザガット」を購入し、修業したい店を決め、裏口から直接アプローチする作戦に出た。向かった先はモダンフレンチの高級店「SONA」(現在は閉店)。すると中からでてきたのはウェイトレスをしていた店の常連で、その人こそSONAのオーナーシェフ、デビッド・マイヤー氏だった。

直談判の末、1週間だけトライアルの時間をもらった。「その1週間が私のディズニーランドタイムでした」。初めて調理場に入った瞬間「これだ!」と思った。そして1週間後、採用が決まった。

その後の生活は見るものすべてが新鮮だった。調理場で働く人々はみなが仕事に人生を懸けていた。競争率が高いレストランだったが仕事が終わるとみなでビールを飲みに行き、シェフや今の食のトレンドを話す活気溢れる仲間ができた。

楽しい半面、ひとたび調理場に入ると闘いだった。人よりうまくなかったら肉も魚も触らせてもらえない。しかし競争している中でも兄弟のように助け合い、料理を愛す者同士の仲間意識があった。そんな場所が心地よかった。

「当時7ドル50セントの最低賃金で働いていたが、お給料をもらいながらLA料理界の最前線で学べるのがうれしかった」八木さんはSONAで8年修業し最後は料理長にまで昇進。閉店後はテレビ番組「トップシェフ」にも携わるなど活躍の場を広げ、日本やフランスのミシュラン星付きレストランでも修業。そのすべての経験をつぎ込んでほしいとマイヤー氏から誘いを受け2人で始めたのが「ヒノキ・アンド・ザ・バード」だった。

包丁の持ち方も知らずに調理場に入った八木さんだったが、辛いこと、辞めたいと思うことがあってもそれを踏みとどまらせたのは師匠であるマイヤー氏の言葉「Don’t give up(諦めるな)」だった。

「私は離婚後、誰かに頼ってではなく、自分ひとりでも生きていけるようになろうと決めました。嫌な出来事があったから続けられた。幸せなことばかりだったら私は何も成し遂げられなかったと思う」と振り返る。

「アメリカは夢を成長させてくれる。いつ初めてもいつ夢をもってもいいということを教えてくれた。日本にいると願うことさえ許されない。今までの師匠たちには唐揚げ以上のものを教えてもらいました。20年前の自分からは想像もできないが、『絶対シェフになる』と思って諦めなかったからシェフになれたのだと思います」アメリカの環境と出会いがひとりの日本人女性をはばたかせた。

ROW DTLAにあるPikunicoの店内。

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Pikunico
767 S. Alameda St. Suite 122, Los Angeles, CA
電話: 213.278.0407
営業時間:毎日午前11時から午後6時
駐車場:2時間無料(レストランのバリデーション必要)

 

*本稿は、「羅府新報」(2019年5月9日)からの転載です。

 

© 2019 Rafu Shimpo / Junko Yoshida

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