銀行残高、わずか1ドル。借金「歯を食いしばって返済」
「2009年、店はつぶれた状態だった」。今でこそ、何気ない口調で語ることができる。だが、ここへたどり着くまでの日々を2人が忘れることはない。
「店を継ぐまでは従業員だったので(店の財務状況を)知らなかった。蓋を開けてみたら大変なことになっていた」と衣枝さんはいう。会社の銀行口座には残高1ドル。取引先などを含む多方面から経済的に援助してもらう窮状だった。「店を継いでいた甥だけがこのことを知っていて、義姉を含む周りは誰も…」
負債のある業者には払っていかなければならない。店は開け、従業員5人も雇い続けた。破産申請してしまえば返済は不要だ。しかし「そんなわけにはいかない」(衣枝さん)。「もしかしたら(店を)潰さなければいけなかったのかもしれない。だけど日本人の気質として無理。頭を上げて外を歩けない。(取引先から)分割でもいいからと言ってもらい、歯を食いしばって返済した」
そんな時、義姉の知り合いを通じ会計士の栗田清さんを紹介してもらった。「栗田さんに話をしたら『建て直しを手伝ってあげようか』と」。経営の仕方から帳簿のつけ方、コンピューターの使い方までいろいろと教わった。ラップトップでもいいから買うように勧められ、すぐに購入した。「それまでコンピューターは使っていなかったので、スイッチの入れ方から親切に教えてくれた」。
粟田さんに導かれ少しずつ赤字を解消した。ようやくプラスになりかけた2013年10月、ちからもちにとってショッキングな出来事が―。
経営危機3年、乗り越える。「人に恵まれここまで来た」
店の経営がプラスになりかけたその月、栗田さんが急逝した。「ショックでショックで」。何も恩返しできないままだった。「なおさらつぶすわけにはいかない」衣枝さんらは心に誓った。
秋に好転した店の経営状況は翌年からさらに良くなった。しばらくすると新しい機械を買えるところまで来た。長く大変な3年間をようやく乗り越えた。
その間、エルサルバドル人の従業員一家は皆ついて来てくれた。和菓子作りは特殊な仕事。彼らが転職することもまた難しかった。
兄の代から続くエルサルバドルとの関係。家を見つけたり家族のビザをとったりと生活面でも彼らを支援した。「エルサルバドルで『ちからもち』と言えばイミグレ(移民局)で有名らしい」と小池さん 。
働き始めてもうすぐ1年になるメキシコ人の男性については「まじめでよく働く。日本人以上に日本人らしいところがある。遅刻などしたことがない」と小池さんは感心した表情を見せる。
「いろいろと大変だったけれど、人に恵まれてここまで来た」。道のりをあらためて振り返り2人はうなずき合った。
SNS普及で客層広がるちからもち、地域に浸透
ここ数年、ちからもちの客層に変化が起きている。日本人や日系米人が減り、フィリピンや東南アジア系の客足が伸びているのだ。「変化は2、3年前から。SNSの影響があると思う」と衣枝さんはいう。写真をSNSでシェアする世界的な広がりが、ちからもちのビジネスにも変化をもたらした。最近ではSNSに載った同店の和菓子の写真を見て、アジア系以外の客も訪れるように。ホリデーシーズンなどのギフト用にと注文が相次ぐ。
店側もそんな客層の変化に伴い、味やデザイン、彼らを惹きつけるカラフルな色合いを考えるようになった。豆や餡を苦手だという客には、まずフレーバー餅から。次はいちご味の餡入りを勧めるなどしてみる。「まずはお餅のことをわかってもらう」ことが先決と考える。
和菓子は見た目こそ違え、中の餡はほぼ同じ味。工夫していかなければ客層は広がっていかない。お茶の先生にはがっかりされるようなデザインも今では店頭に並ぶ。だが、フレーバー餅を喜んで買って行く日系以外の客に受け入れられないことにはビジネスとしては成り立たない。秋にはハロウィーンや感謝祭を意識し、クリスマスにはツリーやヒイラギを和菓子に飾る。桃の節句や端午の節句にも、視覚を楽しませる工夫を凝らした和菓子がショーケースに並ぶ。同時に「こだわりを持って続けるものは続けていく」(衣枝さん)。
こうした店側の努力が実り「開店2時間で売り切れることもよくある」(小池さん)というほどに、今や同店の和菓子は地域に浸透している。
職人の葛藤も「ベストを尽くす」、地域の期待に応え、店を守る
衣枝さんは「職人としての技術も知識も未熟」だと自身をとらえている。本格的に弟子入りし修行した身ではない。店のフロントをしながら10年、作り始めて10年、それでも「まだまだ」との思いは強い。だからこそ「わたしたちは自身のベストを尽くすことだけを常に心掛けて商いをさせていただいている」と殊勝な姿勢を貫く。
当地の和菓子屋の数が減っていく中で、店を続けてほしいという地域の声を時に重圧のようにも感じる。「それに耐えて期待に応えていけるか、不安がなくなることはない」と衣枝さんは吐露する。
そんな職人の不安とは反対に接客に立つ陽子さんは「義妹の作る和菓子は、夫(の丸岡さん)が作っていたものよりも色が明るい。デザインも凝っていてきれいだし、種類もずいぶん増えた」という。 陽子さんは客から「職人は女性か」と問われることや「デザインがきれいになった」などと感想を伝えられることもある。「店の中で力仕事も含め、全ての工程を知っているのは彼女だけ」。衣枝さんのこれまでの努力が並大抵のものではなかったことを陽子さんは義姉として一番よく理解できる。
特別なお茶席に出される「上生菓子」は和菓子の中でも高級品と称される。衣枝さんの元には、世界的に有名なレストランの会長から自宅用にと「上生菓子」の注文が届く。
お茶の師匠が本を持参で訪れ、「これを作って」とリクエストすることも。そのようなときも常に「ベストを尽くさせていただく」。
師匠である丸岡さんの37年のキャリアに衣枝さんが追いつくころ、ちからもちの和菓子はどんな変化を遂げ、何を守り続けているだろう。
* 本稿は『羅府新報』(2019年1月1日)からの転載です。