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「花嫁のアメリカ」実録

2006年渡米、カリフォルニア州サクラメント近郊在住~順子・クエストさん

横田基地内で偶然の出会い

東京の八王子で生まれ育った順子さんは、「幼稚園の頃から、泣き声も大きくて、先生からも『意見をはっきり言う子だね』」と言われていました」と振り返る。将来は漠然とアニメの声優か、警察犬の訓練士になりたいと夢見ていた。早く社会に出たい! と思っていた順子さんは高校を中退、東京都下の横田基地で働き始めた。「私の父が若い頃に米軍基地で車両部の運転手を務めていただけでなく、母方の祖父も基地内でシビルエンジニアとして定年まで働いていたんです。父はその後、転職しましたが、私が幼い頃には横田基地のフェスティバルに連れて行ってくれていました」。

順子さん自身は、基地でチャイルドケアセンターの保育助手や、ベビーシッターとして働き始め、通信中隊のプロジェクトマネジャーにまで昇進した。そして、ある会議で運命の出会いが訪れた。「いつも会議に出てくる軍側のスタッフの代理で、今の主人が現れたのです。彼は、軍内でアドミニストレーションの仕事をしていました」。

夫婦のポートレート 

当時、順子さんは28歳。「偶然会議の代理で現れた」5歳年上のジェームスさんと一緒に仕事をしたことがきっかけで、30歳で結婚した。家族の反対はなく、父も母も弟も真面目なジェームスさんを受け入れてくれた。もともと進歩的な姿勢の父親は、順子さんが子どもの頃から「海外に目を向けろ」と言っていた。

では、順子さんはジェームスさんのどんなところに惹かれて結婚を決めたのだろうか?

「彼のほわー、じわーとした温かい人柄ですね。私は結構、ビリヤードや、ボウリング、ペイントボールなどの勝負が好きで、デートの時もそういうことをジェームスと一緒に楽しんでいたんです。男性によっては、女性に負けると機嫌が悪くなったりする人もいます。でも、彼は負けても勝っても安定していたし、逆に私のことをフォローしてくれたりもしていました。そういう彼を見て、結婚するならこういう人かな、と思うようになりました。あとはペイントボールをした後、彼の肩幅が広いくていいなと思ったのも決め手になりました(笑)」。

ジェームスさんは、日本に赴任してから日本人の指導者の下で、剣道と薙刀を修め、その腕前は三段。「法事に行っても、剣道をやっている彼の方が正座をしていても動じることなく、周りが感心していました」。


「頑張る君を支えたい」

結婚後、初の日本国外の赴任地はドイツ。ハイデルベルクの陸軍の欧州本部で4年間を過ごし、その後、北カリフォルニアのビール空軍基地に転任、そこを最後に、2010年、ジェームスさんは25年間勤めた米軍をリタイヤした。「大学での彼の専攻は歴史で、その後基地の歴史官の勧めもあって冷戦時のビール基地の歴史の本を出すことができました。今でも少しずついろんな資料集めをして日々努力しています」。

夫の励ましで大学院まで終えた

そして、現在、順子さんはセラピストとして心理カウンセリングのオフィスにプログラムスーパーバイザーとして勤務している。「ドイツにいた時に、ジェームスに『大学に行った方が良い。いずれ本土に行くのだから勉強をした方が良い』と励まされました。勉強は好きですがヨーロッパをゆっくり見る暇もなく、着いたその月に彼と同時に進学しました。横田時代に夜間大学に通ったりもしていたのですが、仕事もしていたし、学費も充分ではなかったので卒業まではたどり着けませんでした。結果的には彼のサポートもありドイツの基地内のメリーランド州大学の心理学の学位を取得しました」。その後、カリフォルニアで大学院を卒業し、現在の仕事につながっている。

手に職を得たことに対して、順子さんは背中を押してくれた夫への感謝の気持ちを隠さない。「軍勤務の奥さんの中にはいろいろな理由があって自動車免許の取得はしなくていい、学校への進学や、仕事は待ってほしい、と配偶者に言われるケースも珍しくありません。でも、ジェームスはいつも『どんどん外に出かけなさい』、『(他の)日本人や現地の人、米軍仲間とも交流しなさい』と言ってくれていました。彼は私を励まし、いろんな面で支援してくれていました」。

夫の支えは今も続く。「アメリカ人に囲まれた職場ですから、結構大変です。ロサンゼルスやハワイと違って、日本語と英語のバイリンガルは地域的に需要が少ないです。頑張っているけど、苦悩も多い日々です。でも、うちの主人は私が片道1時間半かけて家に帰ると、日本の料理を作って待っていてくれます。以前はカレーを作ってくれても、私ははっきりしているから『ひどい。こんな水っぽいカレー食べられないわよ』ってずけずけ言っていたんです(笑)。しばらくは彼もむっとして作らなくなりましたが、彼自身もカレーが好きなので復活し、今では彼の作るほうが美味しくなり、文句が言えなくなりました。彼の静かな優しさにはやっぱり感謝しています」。

ジェームスさんが順子さんに言うのは「君は頑張りすぎる。一生懸命すぎるから、僕が支えないといけない」という言葉だそうだ。しかし、負けん気が強い順子さんは「支えてくれなくても大丈夫」だと言ってみせながらも、強い絆で結ばれていることが伝わってくる。


米軍社会でさらにタフに

二人が出会った19年前の日の前夜、順子さんは不思議な感情に襲われたという。「明日、なんとなく運命の人と出会う」という、説明できないような予感を感じたのだ。「そして、朝起きて、本来なら来ないはずの彼が、代理で会議に登場したのです。ジェームスも、いつも出席している人に『ジュンコっていう、すごく恐ろしい女性がいる。厳しくて絶対にプロジェクトにはイエスって言ってくれない』と聞かされて、身構えて会議に向かったと話していました(笑)だからすぐに盛り上がってどうこうではなく、むしろお互いに警戒していました」。

順子さんは米軍社会やアメリカに来て、自分でもさらに精神的にタフになったと分析する。それでも幼い頃には「外に目を向けろ」とアドバイスをくれた父親がいたように、今は励まし、文句を言われながらも美味しいカレーをつくってくれる夫がいる。

最後に結婚してアメリカに来てなければどうしていると思うか、と聞いてみた。順子さんは「日本で、ぬくぬくとこたつで丸まっていたと思います」とユーモラスに答えた。

 

© 2018 Fukuda Keiko

california sacramento Shin-Issei

このシリーズについて

第二次大戦後にアメリカ人将兵に嫁いだ日本人女性、そして80年代にGIと結ばれた日本人女性まで、幅広い世代の「アメリカ軍人と結婚して渡米した花嫁」たちの軌跡を追う。