ジャーナルセクションを最大限にご活用いただくため、メインの言語をお選びください:
English 日本語 Español Português

ジャーナルセクションに新しい機能を追加しました。コメントなどeditor@DiscoverNikkei.orgまでお送りください。

ja

1984年渡米、レストラングループ率いる上地勝也さん

現在、全米にパートナー企業と共同経営するレストランを含めると25店を展開している、日本料理のシェフであり起業家の上地勝也さん。今や業界関係者は言うまでもなく、カツヤ・ブランドの店を通じて彼の名前はアメリカに浸透している。

2018年10月には有名シェフを一堂に集めて開催されるラスベガス・フード・アンド・ワイン・フェスティバルのヘッドライン・シェフに選出された。勝也さんは同フェスティバルでマグロの解体ショーをプロデュース。和太鼓が響き渡り観客の期待が高まる中に登場し、260パウンドもの巨大なマグロを解体、刺身と寿司に切り分け、長蛇の列に並んだ人々に振る舞った。


ロッキー・青木の自伝に啓発

少年時代の勝也さん。真っ直ぐな瞳が印象的だ  

勝也さんは1959年、沖縄の宮古島に生まれた。両親は那覇市で食堂を経営していた。勝也少年はいつしか警察官に憧れるようになったが、「高校時代の悪さが過ぎて卒業できなくなりました。警察官の夢は諦めて東京へ。さらに大阪の辻調理師学校を出ましいた」。その後、沖縄に戻ってホテルの日本食店で働いていた時に転機が訪れた。「寿司カウンターに座っていたお客さんが友人と話していたんです。その中でアメリカの話が出て、レストランを経営していることがわかりました。そのお客さんがお帰りになる時に自分から、アメリカの店で使ってくださいと頼んだんです」。当時、勝也さんはアメリカで鉄板焼レストランチェーンを破竹の勢いで展開していた紅花のロッキー・青木さんの自伝を読んだばかりだった。沖縄で一生を終えるのか、それともロッキーさんのような人生を自身も歩めるのか、頭の中で将来への不安と冒険心とがせめぎ合っていたのかもしれない。「アメリカに来たいと両親に伝えた時?『おお、行け、行ってこい』と言われました。『いい経験を積んで来なさい』という意味で言ってくれたのだと思います」。

そして、1984年に渡米。働いた店は1年で閉店となり、その後、別の店に移り、長く働いた。いつしか勝也さんから寿司を握ってもらうために、カウンターの前に多くの顧客の列ができるようになった。「僕の前だけ2時間待ちです。だから常にお客さんを迎える時は万全の体制で臨まないといけない。真摯に迎え入れることが重要です。そして自信のあるものに対して自分から売り込んで行きます。『騙されたと思って食べてみてください。気に入らなかったら払う必要はない』って。100人中100人が食べてくれます。そして99.9%は美味しいって言います。残り0.1%は変わった人がいますから(笑)。それでお客さんには印象がつくわけです。彼のところに座れば間違いはないって思っていただけます。そして私もお客さんの顔と名前、好みを覚えておきます。寿司シェフの姿勢に日米で変わりはありません」。


転機は米企業との提携

上地勝也さん

1997年、ついに勝也さんは独立、ボスから店を買い取りオーナーとなった。「独立できて感動したか?とんでもありません。それより心配が先でした。お金が800ドルしかなかったんです。子供が2人に女房1人。家族を抱えて、その手元にある金で店を回していかないといけない。心配は続きました。でも1年経つか経たないかのうちに、ある金曜日にお客さんが店になだれ込んできたんですよ。それまでも映画関係者がちらほら来ていました。その口コミからか、ある金曜日に客が一気に増えたんです。それからお客さんの流れは止まっていません」。

その後、ロサンゼルス近郊に直営の店を着々と増やしていった。しかし、彼の名が広く知られるきっかけとなったのは、2005年にアメリカの企業と手を組んで、パートナーシップでも店を展開するようになったことだ。「彼らとの出会いは2004年でした。私のブランドを作ろうと提案されました。チャンスだと思ったか?思いませんね。断り続けていました。パートナーシップを組むのが嫌だったんです。でも彼らは諦めませんでした。オフィスに1度来て欲しいと言われました。それで行ったところ、エネルギーを感じたんです。これはちょっとやってみようかなという気持ちになりました。面白いなとは思っていたけど、いざパートナーとして組むと、あっちが強いとかこっちが強いとかパワーゲームが始まるでしょう?でも、事務所でエネルギーを感じ、手を組むことに決めました。成功の鍵は相手に委ねるんじゃなくて自分が結果を出そうと努力することです。でも僕の場合はあちらの努力が大きいです。まず資本が豊か。フィリップ・スタルクという有名デザイナーに店のデザインを任せたりね。そういうことのすべてがうまく合致したのでしょうね」。


礼節、敬意、親孝行

独立するまで長くかかったこと、アメリカの企業とパートナーを組んで異なる文化や手法を学ばなければならなかったことがそうさせるのか、勝也さんの姿勢と語り口は非常に謙虚だ。そして今は後進の育成とチャリティ活動にも力を注いでいる。冒頭で紹介したフェスティバルも収益金が子どものがん治療に寄付されることに大きな意義を感じたと語る。そんな勝也さんに改めて自らのアイデンティについて聞いた。

「私は日本人です。アメリカ人にはなれません。先日、海外に暮らす日本人を紹介するテレビ番組を見ました。ブラジルに住んでいる90何歳のおばあちゃんが登場して、30分か40分の間になんども『日本人らしく』と言ったのが非常に印象に残りました。最近では、そのおばあちゃんの言葉が最も僕の頭にヒットしました。日本人らしさとは礼節を重んじ、目上の人を敬い、親孝行する、ということです。ブラジルのおばあちゃんの『日本人らしく』、その言葉に感銘を受けました」。

現在、全従業員の数は450名。那覇の寿司カウンターで耳にしたアメリカ在住の日本人の会話がきっかけで渡米して35年、今は従業員の家族も含めると勝也さんの肩には1000人以上の生活がかかっている。「アメリカに来たいという日本の若い人へのアドバイス?まず目的ありき、でしょう。それがあれば最後まで諦めないこと。99%のところまで行っても最後の1%で諦めたら駄目になります。私はやめようとは思いませんでした。諦めなかった、と言うよりも、諦めきれなかった。それに、うちで働いている若い人をいつまでもマネージャー止まりにしておくわけにはいきませんでした。もっと伸びてもらおうと思って彼らに店を任せよう、という気持ちからトントンと店が増えていきました。私にも夢があるし、働いている人にも夢を叶えて欲しいと応援してきました」。そう言って勝也さんは穏やかな笑顔を見せた。道はまだ未来へと続いている。


Katsu-ya Group

Katsuya Restaurant

 

© 2018 Keiko Fukuda