出会いは普天間基地近く
アメリカ将兵と結婚して渡米した日本人女性を取り巻く環境は、時代が変われば大きく異なる。南カリフォルニア、オレンジ郡に住むブデイ博美さんは沖縄県那覇市生まれ、2016年5月の取材時点で56歳。短大に通っていた20歳の時に、ひとつ年上のスティーブさんに出会い、21歳で結婚した。スティーブさんとは、彼の駐屯先の普天間基地近くにあった、友人経営のロック音楽が流れるバーで知り合った。「たまたま大量のアイスクリームをもらったので、大きな冷蔵庫がある、その店に持って行った時、開店前で、客はいないはずの時間なのに、一人で彼がそこにいました。『どこから来たの』と話しかけられました」
博美さんが抱いたスティーブさんの第一印象は、「きびきびした海兵隊員」だった。仕事はエアトラフィック・コントローラー。戦闘機を管制する職務だ。つき合ううちに彼のやさしさに魅かれた。
スティーブさんはオハイオ州出身のスラブ系アメリカ人。兄弟は男ばかり8人。海兵隊に憧れて高校卒業後に入隊し、軍で4年を過ごした後に大学に入学する予定だった。しかし、博美さんと出会ったことでその計画を延期し、二人は若くして結婚した。
家族の反対はなかったのだろうか?博美さんの父親は、既に病気で亡くなっていた。「父が生きていたら、アメリカ人との結婚を許してくれなかったと思います。母は相手が軍人だからという理由ではなく、私が結婚で遠くに行くことに対して反対していました。しかし、祖母が『海外に出て家族を作れば、一族が世界中に広がる。とても喜ばしいことだ』と、私の結婚を後押ししてくれたのです。母もその祖母に負けて、最終的には許してくれました」
沖縄で結婚後、女の子を出産してしばらくした後、夫婦はアメリカに渡った。「娘を連れてオハイオの実家に半年身を寄せました。夫の兄弟の家族も隣に住んでいて、賑やかで楽しかったですよ。主人のお父さんやお母さんも私のことを可愛がってくれました」
大勢での暮らしが楽しかったので、赴任先のサウスカロライナに移った時は、一転、寂しい思いをしたそうだ。南部という土地柄、アジア人としての差別はなかったのかと聞くと、博美さんは一度も感じたことはないと即答した。「もちろん地域によっては変な対応をする人もいましたが、それは個人の問題であって、気にしたことはありません。むしろ、南部の人は、人懐っこく、また男性はサザンジェントルマンといって紳士的な対応が印象的でした」
道を開いたのは祖母の後押し
サウスカロライナの後は、南カリフォルニアのモハビ砂漠にある基地に異動した。さらに再び沖縄に移り3年半を過ごした後、モハビ砂漠の基地に戻り5年間勤務した後にスティーブさんは38歳で軍をリタイヤした。エアトラフィック・コントローラーを経て、コントローラーを訓練するトレイナーになり、最後はトレイナーを訓練するマスタートレイナーにまでなっていた。退役後は、機械設備の技術的なマニュアルを作成するテクニカルライターとして大手の民間企業で働いている。
また、軍に勤務していた時から、スティーブさんも博美さんも子どもを育てながら、大学に通った。博美さんはビジネスアドミニストレーションを専攻して卒業、スティーブさんは社会学でBAを取得後に修士課程も修めた。そして、博美さんは、現在、デンタルインプラントの研究開発、製造販売をする会社の顧客情報管理のアドミの仕事をしている。
週末は同じくアメリカ人と結婚し、近隣に住む姉の勤子(いそこ)さんと、琉球舞踊の道場に通っている。「踊りを始めて4年になります。沖縄では、お祝いがあると、家族で互いに芸能を披露する風習があります。姉と沖縄に帰省した時に何か一曲、皆の前で踊れれば、と、琉球舞踊の先生を探して、素晴らしい先生に巡り会ったことで、ほんの2、3カ月のつもりが、すっかり魅了され、やめられなくなりました(笑)」
21歳で結婚し、アメリカに渡り、35年。これまで自分では触れる機会のなかった郷土の文化に出会い、目が開いた思いだと博美さんは語る。「沖縄を出なければ、逆に故郷の文化の素晴らしさを認識することはなかったかもしれません」
子どもたちは長女が33歳、長男が31歳になった。結婚35周年を迎え、博美さんに夫に贈る言葉を聞いた。「ありがとう、ですね、やっぱり。社会のことを何もわからなかった時に一緒になって、困ったり、大変だなと思うったりしたこともありましたが、主人には感謝しています。今も仲がいいです。もし、彼と一緒になっていなかったら?沖縄で短大を終えて銀行で働いていたかもしれません。高校時代の友人もほとんどが、故郷で普通のOLになりました」
そして、博美さんの今があるのは、何より、彼女の祖母が開けた考えを持っていたからだと言えそうだ。
© 2016 Keiko FUkuda