南房総の若き水産業の専門家、小谷仲治郎が太平洋を越えカリフォルニア州モントレーへ旅立ったのは、1897(明治30)年のことである。南房総と同じ緯度にあるモントレーには大量のあわびが生息していた。
日系人排斥の機運が高まるなか、佐賀県多久市出身の野田音三郎は、日系人が職を得て自活しうる一方策として、大量のあわびを採取し干しあわびを作って、カリフォルニア州内の中国人への販売や日本へ向けて輸出しようと考えた。静岡県富士郡出身の雑貨商井出百太郎の資金援助を受けて、日本にあわび専門家の派遣を要請した。
水産伝習所(現東京海洋大学)卒業生の小谷仲治郎に白羽の矢が当たり、仲治郎と兄の源之助は渡米した。小谷兄弟は、モントレーの冷たい海水に対応するため、器械式潜水服を用いたが、これが北アメリカでの潜水器漁業の発祥となった。
1902年にモントレーの南に位置するポイントロボスに、缶詰会社を設立した。しかし事業は、日露戦争での日本の勝利にアメリカで反日感情が高まり、1915年にカリフォルニア州外にすべてのあわび製品を持ち出すことが禁じられた。だがドイツ系移民ポップ・アーネストが、あわびステーキを開発したことで、あわび料理がカリフォルニア州に定着し、継続することができた。
1908年の日米紳士協約前に日本に帰国した仲治郎は、日本からダイバーを送って事業の支援を続けた。今度は1924年に日本人の米国への移住が完全に禁止されたが、小谷らの努力により、アメリカ政府は一時的な滞在を条件に、少人数のダイバーたちの入国を許可した。
アメリカでは仲治郎より、兄源之助が日米を結ぶ水産のパイオニアとされて評価が高い。この認識の違いについて、源之助が慶応大学にはない海洋学部の卒業生で、水産生物学の専門家と紹介されてしまったことが原因だと推測する。
アメリカ側の郷土史家による日系人調査とはうらはらに、送り出した側ではその史実が歴史に埋もれているなか地道に調査を続けた結果、小谷ファミリーには1930年代を中心に多くの日本人が訪問していたことが明らかになった。政治家の尾崎行雄、画家の竹久夢二、朝香宮夫妻や高松宮夫妻などの皇族、外交官の松岡洋右、海軍軍人の瓜生外吉、ハリウッドの映画俳優早川雪洲、教育者の新渡戸稲造、さらに救世軍の小林政助、山室軍平や社会主義者の宮城与徳らも来ていた。
当時、日本にいたら、普通はまず会えない人たちばかりである。いかに、「地域」が世界と連動して動いていたかの実証になるだろう。
1942年小谷ファミリーはアリゾナのポストン強制収容所へ送られたことで、一家が所持していたダイバーに関する記録、資料はほとんど破棄された。しかし南房総には500枚にもおよぶ写真や、ダイバーに関する記録が残っている。2014年、新渡戸稲造自筆サイン入りの肖像写真が地元で発見された。
© 2015 Masaaki Yamaguchi