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父・天野芳太郎とのこと - 長女・玻満子さんの思い出 - その1/4

天野芳太郎さん(1898─1982年)については、既に多くのことが語られている。天野さんの生涯を紹介する書籍も多く、天野さん自身、数々の著書を著した。中南米での事業の成功。アンデス文明の調査研究。収集した文化遺跡を集めた博物館。ペルー政府からの勲章受章。その足跡は「日本ペルー協会/天野博物館友の会」のサイトでも細かく紹介されている。

しかし、最初のペルー訪問以来、長年天野さんに世話になった東京大学名誉教授(ラテンアメリカ歴史学者)の増田義郎さんによると、「天野氏は自己の過去について得意然として語ることを、あまり好まなかった。誰にでも披露する限られた数の決まりきったエピソードを除いては、たとえわれわれの側で質問しても、答えられることは稀であった。それ故、天野氏の生涯には、霧に包まれた不明の部分が少なくない」(天野芳太郎著「わが囚われの記」解説より)という。その「霧に包まれた部分」とは、どういう側面なのか。霧に包まれているのだから、それが何であるか分からなくて当然だが、恐らく、その一つは、天野さんの個人的な側面であることは間違いないだろう。

3度の結婚で5人の子どもをもうけた天野さん。その父親としての「顔」は、あまり知られていないのではないか。そしてもう一つは、さまざまな人々の人生に及ぼした数々の影響である。それは天野さん自身が語ることは難しいことだし、影響を受けた本人にもなかなかはっきりと自覚できないものかもしれないが、計り知れないほど多くのラテンの国々の人々に、そして日本の人々に、実に大きなものを天野さんは残した。それを、天野さんの子どもたちに見て取ることができるだろうか。

エンシニータスまで

最初に全米日系人博物館「ディスカバー・ニッケイ」担当の西村陽子さんから、「天野さんの娘さんがカリフォルニアに住んでいる。話を聞いてみませんか」という連絡をもらった時、私の胸に湧いたのは「えっ、あの天野さんの娘さんが!」という、驚嘆の思いだった。天野さんの「わが囚われの記」は読んでいたし、同じようにペルーから連行された東出 誓一さんの「涙のアディオス」も読んでおり、私にとって二人は言わば「伝説の人」だったのだ(東出さんには以前ハワイに行った際、自宅に訪ねたことがあった)。

しかし、それから長い間、私は娘さんのところに伺うことができなかった。「わが囚われの記」を読み返しながら、一体私は何を聞いたらいいのか、何を聞くべきなのか、そして、聞いて何をしようというのか、といった自問が頭をもたげてきたからである。

なぜか。天野さんのことについては、既にその生涯を詳細に紹介するサイトができている。私に出来ることといったら、その「確証」を娘さんから得ることぐらいでしかないのではないかと思うのだが、それにどれほどの必要性があるというのか。私は、いわゆる「研究者」ではないし、天野さんの生涯は桁外れに大きいため、私などいまさらその生涯を追ってみても始まらない。私が天野さんの「知られざる部分」を聞き出したとしても、それが今、私にとってどれだけの意味があるというのか。

逡巡している間に、時間はどんどん過ぎていった。西村さんには「何か書いてみましょう」と約束していた。しかし、私の中で「これ」といった明確な「狙い」が見えてこない。それでも、「娘さんのいる『現場』に立つことで、何かを掴むことができるかもしれない」という思いにせきたてられて、サンディエゴに近いエンシニータスにある天野さんの長女玻満子(ハマコ)さんの自宅を訪れたのだった。

ハリーさんとの出会い

玻満子さんは夫のハリー・シュナイダーさんと私を迎えてくれた。それから2時間以上。玻満子さんは「日頃ほとんど日本語を話していない」と言いながら、それでも驚くほど流暢な日本語で話し続けた。問題と言ったら、時たま単語がすぐに思い浮ばないぐらいである。その日本語で、玻満子さんは、父親のこと、父親の二人目の妻・志津子さんのこと、三人目の妻・美代子さんのこと、それぞれの子どもたちのこと、ペルーを訪れた時のこと、そして、玻満子さんとシュナイダーさんとの結婚のことなど、実に多くを語った。時折シュナイダーさんが日本語で、あるいは英語で、玻満子さんの話を確認するように、あるいは補足するように話す。

その中で、私が特に印象深いと思った話から紹介しよう。その方が私には話を進めやすい。

その一つは、玻満子さんの結婚の話である。1948年、日本で出会った米軍将校のハリー・シュナイダーさんと結婚した。そしてそれから2年後の1950年、日本を去りカリフォルニア州に来たのだが、まず、そこに至るまでの歩みを、急ぎ足で見ていこう。

玻満子さんは1925年、横浜で生まれた。母親は「横浜小町」と呼ばれるほどの美人で、天野さん夫婦が饅頭屋を営んでいた頃だった。饅頭屋は成功していたのに、天野さんは早くも海外雄飛を考えていた。饅頭屋の顧客の一人、井川ヨシという女性を通じて、ペルーの首都リマ市にある末富商会の経営者、藤井忠三と文通を始めていたのだ(増田義郎さんの「天野芳太郎の生涯」より)。そして、玻満子さんが生まれて3年後の1928年、海外移住の候補地を求めて横浜を発った。

左から二番目父・天野芳太郎と母・しずえさんに抱かれる玻満子さん

玻満子さんの母親と天野さんとは結婚したが、入籍はしていない。玻満子さんの母親の家族が、結婚に反対だったためだ。天野さんは何度も2人の結婚を認めてくれるよう頼んだが、「日本に住みたくないなどという頭のおかしい人に、大切な娘をやることはできない」と、頑として聞かなかった。それで、天野さんは玻満子さんと、玻満子さんの妹の諒子(りょうこ)さんを引き取って静岡の叔母のところに預け、日本を出た。

天野さんのその後の足取りについては詳細に触れないが、ざっとみておくと─。アフリカ経由でいったんウルグアイに行ったが、父親の訃報を受け急遽帰国、再び1928年12月に日本を離れ、数カ国を経た後パナマに着き、そこで「天野商会日本商店」を創業。その後、藤井忠三の長女テレサ(志津子)さんと1932年に結婚し、直人、マリエという二人の子どもをもうけた。

玻満子さんは父親が志津子さんと結婚した翌年の1933年にパナマに行き、父親の家で約2年間を過ごしている。玻満子さん、7歳の時だった。「お前は今からここに住むんだ」と言って、パナマの名所や旧跡に連れて行ってくれたのを憶えているが、やはりまだ小さいころのこと。記憶に残っていることはそう多くない。

再び玻満子さんが父親と一緒に住むようになるのは第二次大戦後の1946年。戦前、天野さんはパナマ運河を一望するところに居を構えていたし、その後コスタリカやエクアドル、ペルー、チリなどでも事業を興して頻繁に行き来していたこともあって、当局から目を付けられていた。そのため、日米戦争が始まるとただちに逮捕され、パナマから米国へ強制連行。その間の詳細をまとめたのが「わが囚われの記」で、ほとんど天野さんの記憶に頼ってしたためたものだった。玻満子さんは「ノートを取っていたわけではないのに」と、天野さんの記憶力に驚きを示す。

天野さんは教育のため、子どもたちを志津子さんとともに早々と日本に返していた。天野さんが米国の収容所を転々とした後、ニューヨークから日本に帰国したのは1942年。日米交換船で横浜に着いた。しかし、翌1943年に志津子さんが病死。天野さんは藤沢の鵠沼に家を買い、そこに家族一緒に住むようになった。

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© 2012 Yukikazu Nagashima

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