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日系アメリカ文学雑誌研究: 日本語雑誌を中心に

『南加文藝』-ロサンゼルスに根づいた文芸誌 -その4/5

その3>>

水戸川光雄は、トゥーリレイクの『鉄柵』時代からキラリと光る短編を書いて、その才能の片鱗が見えたが、『南加文藝』でも藤田に劣らず多くの作品を発表している。彼は第2号から23篇の短編小説を載せている。「風と埃」(第9号)、「焦点のない日々」(第15、16号)、「曳かれ者の歌」(第22、23号)、「雪の朝」(第28,29号)「我らは貨物なり」(第34号)など圧倒的に強制収容所とその後の抑留所生活をテーマにしたものが多い。これらは収容所内で書いていたものの続きと言える一連の作品群である。

この他に老人を描いたいくつかの佳作がある。「くわい頭」(第30号)は年老いた母を郷里に訪ねる話、「差し繰られた人生」(第5号)は心ならずも独身のまま88歳を迎えた一世の老人が、日本の親戚からも拒否され、帰りつく場を失ってアメリカで骨を埋める決心をする話である。

もっとも優れているのは、「素麺会」(第2号)、「灰色の墓地」(第6号)である。「素麺会」の主人公は苦労して育てた専門職の息子が結婚し、ほっとしたのも束の間で妻に先立たれる。息子は片言の日本語をあやつって優しくしてくれるが、嫁は日本語ができない上、生活様式もまったく違うので、主人公は戸惑うばかりで、ついに家の中に身の置き所がなくなって町へ飛び出し、「素麺会」なるものと出会う。「素麺会」とは素麺を茹でるとき「おっても、おらなくてもよい」という言葉合わせで、「居ても居なくてもよい」老人の集りを意味した。存在価値のなくなった老人たち5、6人連立ってバスでダウンタウンへ行き、バス停近くに座って一日を過ごす。毎日同じことを繰り返すうちに老人たちは一人二人と減っていく。

「灰色の墓地」では脳溢血を病んで半身不随となった一世の老人がアメリカ様式の墓や人種混合の墓地になじめず、死んだら故郷の墓に葬ってほしいと望んでいる。しかし、妻にその望みを叶えましょうと言われると狼狽してしまう。本来ならば喜ぶべきであるのに彼はなぜ背筋の寒くなる想いにとらわれたのか。故郷は恋しいが、アメリカを離れることは彼の家族と離れることを意味し、それには耐えられない。長年アメリカで暮し、家族をもった一世の相反する複雑な想いを描いている。老人を描いたこれらの作品にはトシオ・モリの『カリフォルニア州ヨコハマ町』に共通する寂漠感がただよっている。

帰米二世の女性の作品は少ない。『ポストン文藝』に小説を書いた久留島扶(芙)紗子は島由記子の名で小説を7篇、随筆を2篇載せているが、小説はいずれも習作で、収容所時代の輝きは見られない。一世の老人問題を扱った「凋落のうた」(第27号)は森美那子の同じテーマの作品と比べるとその差が明らかである。

おなじくヒラリヴァーの『若人』からトゥーリレイクの『怒濤』、『鉄柵』で活躍した伊藤正も随筆を含む雑文を11篇載せている。収容所時代正義感の強い青年で、歯に衣着せずに物を言ったために物議をかもしたこともあるというが、その正義感は『南加文藝』でも少しも変っていない。

「嘘のような話」(第26号)は被差別部落民であると噂をたてられて反論し、自分がそうでないことを証明する過程を述べたものである。彼は部落の歴史に触れ、これは為政者が便宜上作り出したもので、人間はあくまでも平等であり生まれながらの人間の貴賎などは存在しないのだと力説している。しかし、それならばなぜ、戸籍を示してまで噂を否定する必要があったのか。この場合の伊藤の正義感は矛盾をはらんでいることに注意しなければならない。

「分からないままに」(第4号)など彼の書いたものの中には父と息子の関係がよく出てくる。実生活でも彼は二人の息子の親であった。しかし晩年、彼の家庭では息子たちが自殺、妻も離婚後に自殺、最後に伊藤自身も自殺するという悲劇的結末を迎えた。理想に燃え、正義感を貫いたかのように見えた伊藤に何が起こったのかは今となっては知るよしもない。

矢野喜代士は『羅府新報』の記者で、『鉄柵』時代から井阿之雨という変ったペンネームで評論などを書いていたが、ここでも「ある一世の話」(創刊号)、「ジャック・ロンドン」(第4号)、「グリズリー熊とカリフォルニアの州旗」(第6号)などカリフォルニアの歴史に関する興味深い記事がある。

 (3)戦後移住者の作品について

『南加文藝』が消えゆく帰米二世の文学誌にならなかったのは、多彩な戦後移住者の存在であった。彼らは日本の豊かな経済力を背景に高等教育を受け、日本文学やアメリカ文学の教養を身につけて渡米してきた点で、苦労して労働しなければならなかった戦前の日系人とは違う恵まれた環境にあった。

山中真知子は1931年に京都府舞鶴市で生まれた。舞鶴第一高等女学校を卒業後、教師として働くが1957年に帰米二世の山中稔と結婚して渡米、以来カリフォルニア州パサデナに住んで、主婦業のかたわら創作を続けている。日本でもすでに文学を志していたようで同人誌にも加わっていた。『南加文藝』より10年早く創刊された『NY文藝』の同人でもあった。『南加文藝』では創刊時から終刊までの編集委員である。非常に多作でほとんど毎号に小説、詩などを載せている。小説は山中で16篇、旧姓の相馬真知子で4篇、合計20篇。詩が6篇ある。持病の喘息を克服し同人の中でも抜群の旺盛な創作意欲を持つ人である。

「マービスタ界隈」(第6号)に代表されるようにほとんどが自分の住むパサデナの町の近隣の人びととの交流や夫と娘との家庭内のできごとなど、身近な狭い世界を描いた作品が多い。狭いといっても日系人のみの世界ではなく、そこにはさまざまな人種関係が見られる。「女とキャンドル」(第12号)のように日本人女性がヒッピーの男女と係わって、その価値観の違いに当惑する様子を描いた作品もある。当時は若者がベトナム反戦運動、大学紛争などに揺れた時代で、既存の価値を打ち壊す若者と、既存の常識の世界に生きる日本人女性の相いれない考え方を浮彫りにしている。

森美那子は1925年東京に生まれ、津田塾大学を卒業後1952年に留学生として渡米、コロンビア大学で宗教哲学専攻の修士号を取得した。小説6篇、詩1篇がある他、第22号にニューヨーク在住で禅を広めた特異な一世佐々木指月の伝記を書いている。この中で優れているのは、「折りづる」(第5号)、「ぶたどうふ」(第6号)、「トメの場合」(第7号)、「鉢植のつつじ」(第33号)で、いずれも一世の老人の悲哀を描いた短編である。

「ぶたどうふ」は働きづめに働いて立派な息子を育て、小さな成功をおさめた老人が自分は質素に暮しながら、留学生たちにぶたどうふをご馳走してもてなすのを生きがいとする話。学生たちは老人の苦労話に飽き飽きして、ご馳走になったらすぐに帰ってしまう。日本から来た若者と老一世の感情のすれちがいを捉え、時代の変化を浮彫りにしている。その他の3篇はいずれも子と意思の疎通ができずに孤独感にさいなまれる一世の老女の話である。苦労して育てた子どもたちは白人と結婚して、かつて親が憧れていたような立派なアメリカ人となるが、英語の下手な老女とは話が通じない。子供は親の世話をするのが当然という古い日本の道徳観で生きてきた一世は裏切られたと感じる。当時の日系社会ではこのような行き場のない一世老人が社会問題になっていた。森がこれらの老人たちの心の動きを的確に捉えることができたのは、移民史に造詣が深く一世をよく理解していたからであろう。

スタール・富子も前述のふたりに劣らず、意欲的に多くの作品を書いている。スタールは、山中と同じ1931年、京都に生まれた。京都大学文学部仏文学科を卒業後、京都で日本語教師となった。1962年R・ミラー・スタールと結婚してルイジアナ州シュリーヴポートに住んだ。その後ニューオーリンズを経て1984年からテキサス州ダラスのサザンメソジスト大学外国語学部日本語科の専任講師として日本語を教えている。

作品を発表したのは20号からで、終刊号までに14篇を載せている。小説の他テネシー・ウイリアムズについての作家論もある。カリフォルニア州在住者が大多数を占める同人の中で、スタールの小説はルイジアナ州を舞台として、南部に住む数少ない日本人戦後移住者の姿を描いている。「沼沢の町」(第28,29号)はニューオーリンズに住むアメリカ人と結婚した日本人の妻とその夫、息子、近隣の友人たちの日常をテーマにした小説で、人種差別、脱走兵、反戦運動などベトナム戦争当時のアメリカ社会のさまざまなできごとが織り込まれている。物語り展開のテンポが速く、読む者を惹きつける。日系人家庭の心情を扱ってごく狭い世界を描く小説が多い中で、スタールの小説は『南加文藝』の世界に新風を吹き込むものであった。

詩では古田純三の子息でニューヨーク在住の古田草一が古い世代にはみられなかったテーマと手法で、多くの詩を書いている。第9号から終刊号まで毎回、意欲的な創作活動を行っている。

短歌では矢尾嘉夫などの一世歌人に代って、セコイヤ短歌会を主宰する松江久志が大いに活躍している。完全に世代が交代して戦後移住者の世代に移った感があり、短歌会には多くの人びとが参加して活動は盛んになっている。松江は第18号から21号まで「歌集回顧」を連載している。日系人の歌集は私家版で出版されることが多く、日本の研究者の目にふれることもほとんどないため、このような記事はたいへん価値がある。

野本一平は本名乗元恵三、1932年岩手県に生まれた。龍谷大学文学部を卒業後、東京で教師をした後、1962年に渡米。西本願寺の開教使として長年フレズノ別院の輪番をつとめ、のちに『北米毎日新聞』社社長となった。野本は多彩な人で、僧職のかたわら日系新聞のコラムにエッセイを書いている。『南加文藝』の同人になった当初は小説を書いており、「蓋棺の記」(第5号)、「白い舟」(第8号)、以下「回帰」(第12号)までの6篇の小説が収められている。しかし野本をもっとも有名にしたのは、文学評論「伝承のない文芸」(第18号)であろう。アメリカにおいて日本語で創作することには、それを子孫に読んでもらえないという寂しさがつきまとう。日系日本語文学は「伝承のない文芸」であるという野本のこの文学論は、日系文学を論じるときにいつも引用される重要な一節になった。彼は意見の相違からか、これを最後に同人を去った。

続く>>

* 篠田左多江・山本岩夫共編著 『日系アメリカ文学雑誌研究ー日本語雑誌を中心にー』 (不二出版、1998年)からの転載。

© 1998 Fuji Shippan

issei Japanese literature kibei Los Angeles Nanka Bungei post-war Shin-Issei southern california

このシリーズについて

日系日本語雑誌の多くは、戦中・戦後の混乱期に失われ、後継者が日本語を理解できずに廃棄されてしまいました。このコラムでは、名前のみで実物が見つからなかったため幻の雑誌といわれた『收穫』をはじめ、日本語雑誌であるがゆえに、アメリカ側の記録から欠落してしまった収容所の雑誌、戦後移住者も加わった文芸 誌など、日系アメリカ文学雑誌集成に収められた雑誌の解題を紹介します。

これらすべての貴重な文芸雑誌は図書館などにまとめて収蔵されているものではなく、個人所有のものをたずね歩いて拝借したもので、多くの日系文芸人のご協力のもとに完成しました。

*篠田左多江・山本岩夫 『日系アメリカ文学雑誌研究ー日本語雑誌を中心にー』 (不二出版、1998年)からの転載。