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日系アメリカ文学雑誌研究: 日本語雑誌を中心に

『南加文藝』-ロサンゼルスに根づいた文芸誌 -その5/5

その4>>

4. 終刊までの経緯と『南加文藝』が果した役割

創刊号は200部発行されたが、発行部数は次第に増えて第21号から25号までは倍の420部になった。藤田を中心にした熱心な合評会も毎号欠かさず開かれていた。

1981年、30号を記念して東京のれんが書房新社から『南加文芸選集』が出版された。発行部数は1,000部、この中には1965年から80年までに発表されたものの中の秀作が収められている。去った山城、野本もこの時にはすでに和解しており、二人の評論も含まれている。日本で発行されたことは、アメリカでこのような日本語の文学同人誌が続いていることを日本人に知らしめた。日本の伝統から離れることで新しさを求める現代日本の作家の作品から日本人は異国を感じ、逆に日系人の作品から日本を感じるという書評があり(『読売新聞』82年11月18日付)、日系人の作品が日本らしさをとどめているのはなぜかと論じられた。しかしこの本は私家版で流通に限界があり、日本で出版されながら一般の日本人の手にはいらないという結果になった。

『南加文藝』はこの選集を最後に歴史を閉じるはずであった。事務局をつとめていた加屋良晴の体力が限界にきたという理由である。60歳を過ぎた加屋には徹夜で謄写版の原紙を切る体力はなかった。原稿も以前ほど集らなくなったと藤田は気をもんで、いくども編集後記で訴えた。古くからの有力な同人は老齢に達して、ひとり、ふたりと幽明境を異にしていった。

向かって左より:藤田晃、加屋良晴、1987年7月、藤田氏の自宅にて(筆者撮影)

ワードプロセッサの時代になっているのに謄写版を使っているのもいかにも古めかしく、変らぬ体制で続けて行くことは難しいと同人の誰もが感じていた。日系新聞紙上で終刊が発表されると、人びとの間から惜しむ声が高まった。同人は改めて15年という歳月の重みを感じ、安易に終わらせてはならないと考え、無理をせず年1回の発行に変えた。それから5年、1985年の第35号でついに終刊となった。発行からすでに20年が過ぎ、編集委員も藤田、山中、加屋の3人だけになっていた。

20年もの長い期間にわたって発行された同人誌は、日本でもあまり例を見ない。これはひとえに同人たちの熱意があったからこそ可能になったのである。意見の相違や些細な誤解から去って行く人もいたが、温厚な性格の藤田と一徹な加屋というトゥーリレイク以来の息の合った2人の存在が、この雑誌を支えたのである。翌86年、私家版で『南加文芸特別号』が出版されて、20年の歴史に終止符が打たれた。

『南加文藝』の果した役割は、第一に文学を目指す日系人に発表の場を与えたこと、第二にそれによって日本語で創作する作家を育てたことである。第三に日本における選集の出版が帰米二世とその文学の存在を広く知らせた。と言っても派手な存在ではないので、一般の日本人すべてというわけではないが、少なくとも文学に関心を持つ人びとにある種の驚きをもって迎えられた。残念ながら職業作家となった人はいなかったが、少なくとも文学と呼べるレベルに達する作品を世に送り出し、人材を育てたことは確かである。『南加文藝』は帰米二世文学の集大成であると同時に戦後移住者の文学をも育んだ。

先に述べたように藤田晃は『農地の光景』、『立退きの季節』を出版し、日本の新聞に『南加文藝』に関する記事を書いた(「『南加文藝』の周辺上、下」『中日新聞』夕刊1980年8月20・21日付)。山城正雄は『羅府新報』のコラムをまとめて『遠い対岸――ある帰米二世の回想』(グロビュー社、1984年)、および『帰米二世』(五月書房、1995年)を出版した。このコラムは現在も続き、あと僅かで30年続くことになる稀にみる長寿コラムである。さらに私家版で、老いを見つめた詩集『老人』を出すなど旺盛な意欲をみせて活動を続けている。

戦後移住者の野本一平は『羅府新報』のコラム「木曜随想」を書き続けている。日本の雑誌『酒』に連載したエッセイをまとめて『かりふぉるにあ往来』(ミリオン書房、1985年)および『箸とフォークの間』(巴書房、1996年)に、同じく日本の雑誌『サード・コースト』の連載記事をまとめて『亜米利加日系畸人伝』(弥生書房、1990年)として出版した。

野本は僧侶という立場から日系コミュニティと深く係わっており、そこで得た豊富な資料を駆使して、移民史に埋れた日系人を掘り起こし、記録に留めている。

『宮城与徳――移民青年画家の光と影』(沖縄タイムス社、1997年)は、ゾルゲ事件に係わった宮城与徳の実像を明らかにする研究書で高く評価されている。野本は『南加文藝』から離れ、小説ではなくエッセイや移民史研究の分野に才能を発揮した。

森美那子は、『ニューヨーク日米新聞』で執筆を続け、『南加文藝』に掲載されたいくつかの佳作を含む短編集を『事故』(れんが書房新社、1998年)にまとめた。

野本は『南加文藝』を「伝承のない文芸」と呼んだが、『南加文芸選集』の「発刊によせて」の中で、鶴谷寿(当時静岡大学教授)は「やがて三世、四世と時代は異なり、使用される言語が違っても、アメリカ文学の分野に必ず繋がってゆくものと」確信すると述べている。1998年現在も文芸同人誌『平成』がカリフォルニアで発行され、すでに32号を数えている。

アメリカ研究の分野では、移民たちが母国語で書いた文学作品もアメリカ文学であると認識し、それらを英語に翻訳するというプロジェクトが始まっている。アメリカ文学とは英語で書かれた文学だけではないのだという認識がようやくアメリカの研究者の間で芽生えてきたところである。(Sollors, Werner: “From ‘English-Only’ to ‘English Plus’ in American Studies,” American Studies Association, News Letter, March, ’98)。時代は確実に変化している。これからも日本語を使って生活する人びとがアメリカに存在する限り、日本語文芸の灯はかすかながらともり続けていくにちがいない。

* 篠田左多江・山本岩夫共編著 『日系アメリカ文学雑誌研究ー日本語雑誌を中心にー』 (不二出版、1998年)からの転載。

© 1998 Fuji Shippan

issei Japanese literature kibei Los Angeles Nanka Bungei post-war Shin-Issei southern california

このシリーズについて

日系日本語雑誌の多くは、戦中・戦後の混乱期に失われ、後継者が日本語を理解できずに廃棄されてしまいました。このコラムでは、名前のみで実物が見つからなかったため幻の雑誌といわれた『收穫』をはじめ、日本語雑誌であるがゆえに、アメリカ側の記録から欠落してしまった収容所の雑誌、戦後移住者も加わった文芸 誌など、日系アメリカ文学雑誌集成に収められた雑誌の解題を紹介します。

これらすべての貴重な文芸雑誌は図書館などにまとめて収蔵されているものではなく、個人所有のものをたずね歩いて拝借したもので、多くの日系文芸人のご協力のもとに完成しました。

*篠田左多江・山本岩夫 『日系アメリカ文学雑誌研究ー日本語雑誌を中心にー』 (不二出版、1998年)からの転載。