恒例となった大学での講義のために訪日中のある日、新聞の死亡欄で、八木さんのお名前を見つけ、愕然とした。侍従次長を定年退職されてからも陛下の御用係として、さらに数年勤められ、昨年も賀状を頂いたことから、まさかこんなに早くお亡くなりになられるとは思ってもいなかった。享年81歳とのことであった。
12月12日に練馬の愛染院で行われた告別式に出席させて頂いたが、天皇皇后両陛下、皇太子同妃殿下をはじめとるす各宮家や多くの友人知己からのお花に囲まれた祭壇に掲げられたご遺影は、初めて拝見するセーター姿であった。ご友人代表の弔辞にも真っ先に述べられたように、温厚そのもののお顔が印象的であり、涙を禁じ得なかった。
私が八木さんと初めて会ったのは、忘れもしない1978年にブラジルで行われた移民70周年祭に、現両陛下が皇太子同妃殿下であられた頃、昭和天皇のご名代として、1967年に続いて2度目の訪伯をされたときであった。当時、文部省国費外国人留学生として東京大学大学院に在籍中であったが、1976年にエルネスト・ガイゼル大統領がブラジルの国家元首として初訪日した際に通訳を務めたことから、両殿下ご訪伯に当たって、ブラジル大統領府から呼び戻されて、再度通訳を務める栄誉を仰せつかった。首都ブラジリアでの公式行事から始まり、7万人を超す歓迎の日系人及び一般ブラジル人で埋め尽くされたサンパウロ市のパカエンブー競技場、ブラジル日本移民史料館の落成式、パラナ州ロランジア、マリンガ両市における、サンパウロに勝るとも劣らぬ大歓迎式典等の光景が、目を閉じると走馬燈のように脳裏を駆けめぐる。
ブラジル政府は、ブラジリアからサンパウロとパラナ両州の式典に出席される両殿下のため、大統領専用機を提供したが、日本側随員とともに、私も同乗させていただいた。サンパウロ市のコンゴニャス空港での出来事であったと記憶しているが、待合室の一隅で乗機の順番を待っていた私の所へ八木さんが来られ、両殿下がお召しであるとのことであった。晴天の霹靂とはまさしくこのことで、何をお話したかよく覚えていないが、自分の生い立ちとブラジル移住、サンパウロ大学を卒業後、日本留学中であること等をかろうじて申し上げると、帰国後に赤坂の東宮御所を訪問するように、とのお招きを頂いた。
望外の名誉とは思いつつ、よもや両殿下が一介の留学生を本当に御所にお招き下さるとは思っていなかったが、秋も深まり、本郷の銀杏並木が色づいた頃、大学の研究室に八木さんからお電話をいただき、両殿下がブラジルでのお約束を果たされたいので、東宮御所訪問につき、私の都合を聞かせてほしいとのことであった。感激のあまり、両殿下のご日程にあわせるので、お任せ申し上げる、と答えるのが精一杯であった。数日後、年が明けた1979年2月上旬のある日が設定された旨、再度八木さんから電話をいただいた。
これが、30年間にわたる八木さんとのおつきあいの始まりであり、お人柄を表すような達筆の年賀状を毎年頂戴し、大切に保存している。
皇后陛下ご執筆の「はじめてのやまのぼり」をポルトガル語に翻訳させて頂いた際のご許可の手続きや出版社を紹介して下さったのも八木さんであり、侍従次長や御用係になられた後は、「橋をかける」「バーゼルより」等のご著書の翻訳について他の侍従の方々に私のことを紹介していただいた。
ブラジル日系社会は、皇室の特別の思し召しにより、過去50年間に多くの皇族をお迎えしている。三笠宮崇仁同妃殿下、常陸宮正仁同妃殿下及び上記皇太子同妃殿下のご訪問のほか、1982年には浩宮徳仁親王殿下(現皇太子殿下)、1988年の日本人ブラジル移住80周年祭に際し、礼宮文仁親王殿下(現秋篠宮殿下)、1995年には日伯修好100周年に際しては、紀宮清子内親王殿下(現黒田清子様)がそれぞれ、初めてのご公務としてブラジルを訪問されている。1997年には、今上両陛下が、天皇皇后両陛下として初めてブラジル訪問されたが、私は首都ブラジリアで再度大統領通訳を務めたほか、サンパウロ市のブラジル日本移民史料館にお越しの際は、運営委員長としてご案内し、さらにイビラプエラ体育館で行われた日系社会歓迎式典においては、式典委員長を務めさせていただいた。両陛下の後ろに座らせて頂き、進行中の催し物につき、いろいろとご説明申し上げたことは、一世一代の出来事であった。私が関わったこれらのイヴェントにつき、八木さんにいろいろとご指導頂いたことも、今となっては懐かしい思い出である。
2008年には、日本人ブラジル移住100周年を祝うために日伯両国で数百に及ぶ大小の行事が行われ、天皇皇后両陛下及び皇太子殿下は、4月24日に東京で、皇太子殿下は4月28日に笠戸丸出航を記念して神戸で行われた記念式典及び6月18日に首都ブラジリアをはじめとして、サンパウロ、パラナ、ミナスジェライス、リオデジャネイロ各州計8か所で行われた記念式典に出席された。私も再度いくつかの行事のお手伝いをさせて頂いたが、これらについて、八木さんに親しくご報告する機会を得られなかったことは残念至極である。
衷心よりご冥福をお祈りする次第です。 合掌
※ 本稿はニッケイ新聞2010年1月9日に掲載されたものを許可を持って転載しています。
※ ニッケイ新聞(www.nikkeyshimbun.com.br)はブラジル国サンパウロ州サンパウロ市で発行されている、移住者や日系人・駐在員向けの日本語新聞です。
© 2010 Masato Ninomiya