ディスカバー・ニッケイ

https://www.discovernikkei.org/ja/journal/2008/10/23/parana-folklore/

ブラジル、パラナ民族芸能祭にみる文化の伝承 ―日系コミュニティの将来とマツリ、そしてニッケイ・アイデンティティ― その1

1.海外日系社会におけるマツリ

現在、海外の日系社会において行われ比較的歴史の古いマツリは、大きく二つの型に分類できる。屋外の広場や通りを中心として行われる広場型と、劇場や会館のステージなどで行われる劇場型である。

広場型はかつて日本人町が栄えていた地域を中心とした場所で行われるものがほとんどである。広場での太鼓のパフォーマンスや、通りで行進しながら音頭や踊りを披露するイベントが中心になっている。場合によっては、屋内での生け花や書道などの作品展示、ダンスや劇の舞台公演などが含まれることもある。こうしたマツリが始められたきっかけはさまざまだが、現在においてはどこでも、日系コミュニティの中心であった日本人町の「心の故郷」としての活性化を、その大きな目的として行われている。言い換えれば、日本人町がどこも衰退の道を辿り、あるいは消滅し、それに対するコミュニティあげての対応策の一環として営まれている側面を読みとることができる。この型には、戦前の1932年から始められたロサンゼルスの二世週祭(アメリカ)や、サンパウロで1972年に始まったサンパウロ仙台七夕祭(ブラジル)、1977年にバンクーバーで開始されたパウエル祭(カナダ)などが含まれる。

劇場型には歌謡や民謡のコンクールのかたちを取るものと、他のエスニックグループと共同で行われる民族芸能祭のかたちを取るものがある。前者は市・州・全国など様々なレベルで行われる民謡や歌謡大会で、日系コミュニティ内で行われ、参加者の趣味や娯楽としてのイベントである。単発的なものも含めると、数の上ではおそらく一番浸透している。後者はブラジルやカナダといった多文化社会を反映した、様々な民族文化を紹介するイベントとして行われ、各々のエスニックグループのフォークロアを披露する場でもある。また、日系人にとってはそのアイデンティティを表現する場ともなっている。この型には1958年から始まったクリチーバのパラナ民族芸能祭(ブラジル)や、1970年に開始されるウィニペグのフォークロラマ民族祭典(カナダ)などがある。

ここではブラジルで行われているパラナ民族芸能祭を例に、日系コミュニティとマツリの関係について紹介する。

2.パラナ民族芸能祭とは

ブラジルといえばサッカー・サンバ・カーニバル・アマゾンというイメージで捉えられることが多いが、南部三州においては移民の導入が積極的に行われ、他の地域との文化的な相違が顕著に見られる。その一つパラナ州には一番多様な移民が入り、およそ60のエスニックグループがあるとされている。そのため州都クリチーバはその構成員の多様性から「エスニック・ラボラトリー」との異名もある。パラナ州立銀行の広告コピーに、

“Somos tantos mas somos um. Somos o Paraná de todos os povos.”
(いろいろいるけれど私たちは一つ。パラナはすべての民族のもの。)

とあるが、これは典型的な移民州であることを如実に表したものである。そして今日、この移民という存在を身近に感じさせるイベントの一つがパラナ民族芸能祭(以下、民芸祭)である。

民芸祭は1958年、オランダ領事夫人の発案で慈善事業として始められた。しかし、当時は娯楽らしい娯楽がなかったこともあり反響が非常に大きく、ある有名雑誌の特集としても取り上げられ、州政府が関心を示して後援するようになった。その結果、毎年8月のフォークロアの日を挟んだ約10日間に渡って州立劇場で公演が行われるようになった。1974四年にパラナ・エスニック連合協会が設立されると、互いに協力しながら文化的伝統を守ろうとする動きも現われ、各グループとも自分たちの民族芸能を次世代へ伝えていくための格好の機会として民芸祭を捉えるようになっていった。現在では州内に定着した主要なエスニックグループ8つを中心として、民族舞踊や歌謡を各グループ2時間の持ち時間で披露し、競い合いの舞台ともなっている。

様々な参加グループ

3.内なるイベントから外に開かれたイベントへ

日本人移住者がかつて移住先の奥地においてコミュニティを形成していた頃には、日本における村落社会と同様に、夏祭りや盆踊りなどの祭りを行っていた。人々がみんなで助け合い、ともに祝い祈る場としての祭りは、母国を離れ孤立したコミュニティにおいては欠くことのできない儀式だった。そしてそれは今日に至るまで農村地帯における一部の日系コミュニティでも、同じように行われてきている。しかし、その多くは今まで「内なるイベント」としてエスニックコミュニティ内で自分たちが楽しむだけの、楽しむことができれば満足できるものに過ぎなかった。演じる者も見物する者も同じ日本人仲間で、純粋に楽しみを目的とした、いわば祭りそのものが目的のイベントであった。

しかし今日、祭りを取り巻く状況は一変した。日系人が行うほとんどすべてのマツリは、非日系の人々に対しても開かれており、エスニックコミュニティを越えて一般市民に向け開催されるようになった。その結果、単なる自己満足としての楽しみを越え「外に開かれたイベント」となり、非日系の人たちに対してもその意義や内容を理解してもらい、さらには参加してもらうという側面が強くなった。言い換えれば、自分たちの文化を一般大衆に紹介するという重要な目的をもつことになったのである。

民芸祭もその例外ではない。当初は民謡や踊りなどに心得のある人たちが中心となって参加し、関係者が見物に来ると言うかたちで行われていたが、現在ではコミュニティ内の単なる年中行事ではなく、自分たちの文化を外に向けた社会に積極的に披露する貴重な機会へと変貌した。さらには、そのことは現実的な問題として、年間を通して準備を整えていくことを意味し、毎週末、場合によっては週数回といった頻度でトレーニングを積むことを意味していった。この過程で、マツリの中で披露される芸の一つひとつが、より本格的そして本式になった。具体的には、「師匠」の登場である。それまでは、仲間内を見回して芸に嗜みのある先輩を先生として習っていたものが、日本においてその道の権威としての資格を取得した「師匠」から指導を仰ぐことになった。日本舞踊の名取や日本歌謡の師範である。また、衣装や道具も、当初は現地の生地や材料を工夫しあるいは間に合わせて毎年同じものを使用していたものが、日本から取り寄せるようになり、高価で派手なしかし本場のものを使うようになった。演じる者にとっては、よりいっそうの日常の鍛錬が不可欠となり、また経済的にもその負担が増すことになった。こうしてより明確な目標が設定され、献身的な努力を必要とするものとなったにもかかわらず、多くの日系人にとってその努力は遣り甲斐のある活動ともなったのである。さらには、若い三世にとっては、日系人であることの証しを晴れ舞台において堂々と顕示する機会となり、アイデンティティを主張する場ともなった。

4.コミュニティ維持装置としてのマツリ

日系人のホスト社会への拡散化とボーダレス化が進むにつれて、若い二世、三世が一世を中心としたコミュニティから距離をおくようになり、かつての日系コミュニティは縮小化の一途を辿っている。そのため日系人としての団結はもちろんのこと、日本文化における優れた遺産が受け継がれていかず、コミュニティそのものが消滅してしまうのではといった危機感が各地で生まれている。こうした傾向に歯止めをかけるための方策として、移住先のどの国どの地域においても最優先されてきたのが、日本語教育の充実であった。日系コミュニティの後継者を育成するには日本文化を理解してもらう必要があり、そのためにはまず日本語の理解と習得が欠かせないというのが、その大義であった。しかしその現状は、子どもが幼く親の意のままになるあいだは日本語学習が続いても、受験期以降は特別な動機や利点がないかぎりは、やめてしまうのが通例である。そして、日系コミュニティで行われるイベントにおいても若い世代の参加が次第に減少傾向を示してきた。こうした趨勢に各地の日系のリーダーたちは危惧の念を抱き、様々な対策を模索してきた。

民芸祭においても1980年代以降、イベントへの参加者の減少は明白となり、二世や三世のリーダーたちは日系コミュニティの将来に対して次第に危機感を抱いていった。1990年台の前半まで、このイベントの参加者はそのほとんどが中年以上の二世女性か、移民である一世のお年寄りたちであった。一世は日本に対する郷愁もあり、歌ったり踊ったりすることに愛着がありごく自然に芸能に親しんでいる。そして「文協」(日系団体を統括する文化協会の略称で、ブラジルでは一般的に各地域名のあとに日本文化協会という名称が付けられ、通称としてこういう呼び方がされる)の施設では、いつもお年寄りの一世あるいは二世が集い、女性たちが踊りの稽古をしたり、県人会の仲間が民謡を歌い三味線や尺八を奏でたり、カラオケの練習に励んでいる。クリチーバの日伯文化援護協会(クリチーバ・ニッケイ)でも、市内中心部と郊外にそれぞれ会館とスポーツクラブをかねた文化活動施設を備えており、そうした光景が普通に見られる。しかし、そこに子どもたちの姿を見ることはほとんどなかった。すぐ隣のグランドでは野球の練習をしたり、プールではしゃいでいる子どもたちは見られるが、老若一緒ということは起こらなかった。移住者である老一世は孫と日本語で話したいと願いつつも、その孫の三世とのあいだにはほとんど何も接点が存在しなかった。そして一世が練習を積んで披露するイベントにも、三世の姿を見ることはまれにしかなかったのである。

しかし、コミュニティ活動が衰退し知恵を絞っていく中で、誰かが妙案を思いついた。三世の孫が一世の祖父母といっしょに同じ場所で時間を過ごすことができて、しかもおじいちゃん、おばあちゃんから何かしらのことを学べるようにするには、マツリという仕掛けがきっかけにならないかと考えたのである。つまり、歌や踊り、楽器演奏の稽古を一緒に取り組むことができたら、世代間で触れ合い交流する場が増えて、同じ価値観や感受性を育み、ひいては仲間意識やアイデンティティの醸成にもつながるのではないかと着想したのである。それ以来、子どもや若い世代が魅力を感じ、何らかの日本の文化に関心をもってもらうために、様々な試みがなされてきた。「春マツリ」に「寿司マツリ」、「移民マツリ」といったマツリを次々と企画し、食文化や日本の伝統文化、日本移民の歴史を紹介するとともに、その同じ場所で舞踊や歌謡の発表の場を設けていった。そして、民芸祭がそうした活動における一年の総決算の場と化していったのである。

そうした取り組みの中でうまく機能したものの一つが、カラオケである。カラオケは一世のみならず、二世や三世のあいだでも人気があり、世代を越えて一緒に練習ができる。また、海外の日系人が歌うカラオケには、日本で日本人が歌うカラオケとは本来異なる意味合いが含まれている。奥地の移住地で父母や祖父母が聞いていたレコードや口ずさんでいた歌謡曲。時には親がそうした音楽を聴きながら涙しているのを見て育った体験は、単なる幼少時の淡く懐かしい思い出ではない。二世や三世にとっては、たとえその歌詞の意味が分からなくとも、親や身内との一体感を呼び起こすものであり、日系としての共通のアイデンティティにも通じるものである。日本でのカラオケブームが去った後も、海外の日系社会で根強くカラオケが続いている背景にはこうした側面がある。

第30回パラナ民族芸能祭のプログラム、1991年。

ここに一つのエピソードを紹介する。民芸祭に参加するようになった10代後半の従姉妹である三世2人の話である。彼女たちは幼い頃から互いに祖父の影響から家庭で日本の歌謡曲を聴いて育ち、歌謡教室に通うようになった。歌謡曲の歌詞の意味は分からなかったが、日本語で歌っていた。歌謡教室の師範から、民謡を歌うことは発声法や技術面で歌謡曲を歌うことにも役立つといわれて民謡も始めた。そしてカラオケのコンクールに参加するようになった。入賞すれば褒美として日本に行けるチャンスにも恵まれるし、歌唱の面白さも分かり始め、民謡大会にも参加するようになった。文化協会で民謡を練習するようになると、そこでは一世が三味線を弾いており、三味線にも関心をもつようになった。そして三味線の手解きを受けるようになると、今度はその場に舞踊があった。そして舞踊にも関心を広げ、日本舞踊もまた習い始めるようになったのである。こうした出会いの中から彼女たちの日本文化の世界は次第に広がり、その関係分野の知識を深めていくとポルトガル語で書かれたものだけでは物足りなくなり、そこで初めて日本語を学習する必要性を感じるようになったという。つまり、歌や踊りや楽器に関心をもつことから始まり、そうした芸を追い求めたさきに、結果として言葉を学習する大切さに到達していったのである。このエピソードは、海外の日系社会で日本文化を継承していく上で日本語教育の重要性が叫ばれるなか、日本語をどのようにして教えるか、日本語にどうやって関心をもたせるかに貴重なヒントを与えている。つまり、日本語が分かって初めて日本文化に関心を抱くのではなく、日本文化に触れて興味を引くものに出会うことで日本語学習に関心をもつようになるということである。

文化協会でカラオケの練習が頻繁に行われ、ブラジルでは毎月のようにして、地域、州、全国レベルのカラオケコンクールが開催されている。この機会は、カラオケをカラオケに終わらせず、日系人の日本に対する関心を引き出す重要なきっかけとなり得るものである。そして文化協会において一世や二世が取り組んでいる様々な芸能や文化活動に、三世が触れる機会を作り出していく必要がある。

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参考文献

アケミ・キクムラ=ヤノ編『アメリカ大陸日系人百科事典』(明石書店)2002年

移民研究会編『戦争と日本人移民』(東洋書林)1997年

ハルミ・ベフ編『日系アメリカ人の歩みと現在』2002年

細川周平『サンバの国に演歌は流れる』(中公新書)1995年

 

*本稿は、『南北アメリカの日系文化』(人文書院)に収録されたもので、許可を得て掲載しています。

 

© 2008 Shigeru Kojima

ブラジル コミュニティ 文化 フェスティバル アイデンティティ 祭り
執筆者について

新潟県三条市出身。上智大学卒。ブラジル国パラナ連邦大学歴史科修士課程修了後、東京学芸大学などの講師を経て、JICA横浜海外移住資料館設立に関わる。早稲田大学人間総合研究センター招聘研究員。移民史、移民研究。主な著作に「日系コミュニティの将来とマツリ」(山本岩夫他編『南北アメリカの日系文化』人文書院、2007年)、「日本人移民の歴史から在日日系人を考える-ブラジル移住百周年と日系の諸相」(『アジア遊学』117、勉誠出版、2008年)、「海外移住と移民・邦人・日系人」(駒井洋監修『東アジアのディアスポラ』明石書店、2011年)。

(2021年4月 更新)

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