ディスカバー・ニッケイ

https://www.discovernikkei.org/ja/interviews/clips/909/

考え方の変化(英語)

(英語)補償運動に際し、若い世代に最も大きな影響を与えたのは、NCRR(補償を求める全国連合)でした。そしてJACL(日系アメリカ人市民同盟)は、補償請求に反対の立場をとっていた多くの年配者の説得に当たりました。反対だった人々は、賠償金を生活保護と捉え、「そんなお金を政府から取るわけにはいかない。」と考えていたのです。それで私たちは、賠償金は福祉ではなく、我々には補償請求する権利があること、そして不当な扱いを受けた場合、相手を起訴できることを、彼らに説明しなければなりませんでした。自動車事故にあったり怪我を負った時、私たちは裁判をします。それと同様に、補償請求はアメリカのシステムとして存在しています。ですから、それを生活保護と考える理由は、どこにもない訳です。


リドレス運動

日付: 1997年9月11日

場所: 米国、カリフォルニア州

インタビュアー: グレン・キタヤマ

提供: Denshō: The Japanese American Legacy Project.

語り手のプロフィール

スー・クニトミ・エンブリー氏は1923年、カリフォルニア州ロサンゼルスに生まれました。戦前エンブリー氏は、リトル東京で育ちました。そして19歳で他の大勢の日系人と共に、マンザナー収容所に強制収容されました。そこで彼女は、収容所新聞、マンザナー・フリー・プレス紙の編集者となります。戦後エンブリー氏は、中西部で数年を過ごし、1948年にカリフォルニアに戻りました。カリフォルニアで結婚したエンブリー氏は、その後教職に就きました。

1969年、エンブリー氏は、最初のマンザナー巡礼の旅の企画に参加し、その直後、共同でマンザナー委員会を立ち上げました。委員会は、マンザナーがカリフォルニア州の史跡となるよう、そしてゆくゆくは国の史跡認定を受けられるよう先頭に立って働きかけました。

エンブリー氏は、強制収容について最初に沈黙を破った数少ない日系二世の一人でもありました。彼女は過去を忘れ去ることよりも、強制収容の事実を人々に伝え、教育することを選び、日系三世や四世に自身の体験を伝え始めました。その後彼女の活動は、マンザナーに教育センターの立ち上げを提案することにまで及びました。教育センターは、2004年に開館し、スー・エンブリー氏は、2006年に83歳で亡くなりました。 (2008年4月15日)

ジミー・ムラカミ

補償金について(英語)

(1933-2014) 日系アメリカ人アニメーター

カズム・ナガヌマ

彼の妹は家族のために賠償金を確保した

クリスタル・シティに収容された日系ペルー人(1942年生)