ディスカバー・ニッケイ

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インタビュー

赤間 みちへ

一世。ブラジル女性教育の先駆者

ブラジル移民の目的

ブラジルへ来る目的はね、私の夫がですね、あの水産大学出てるんですの。日本のね。それで、ブラジルへ行って水産業を大いにやろうというわけでね、その希望を持ってきたんです。でも私はね、来たくなかったのよ。10年間はね、ほとんどまぁ泣いて暮らしたみたいななもんですよ。あのノロエステ州のね、カフェランディアというところに入りましてね。そしてそこで三ヶ月ほどおりましたのね。子供が生まれましたので、それであの、とても私たちの観測ではね、百姓などできないので、それで私はね、レジストロというところでですね、日本語の先生・・・ここではね、外国人はその仕事はできなかったの。今は何でもできるでしょ。けど、その当時はね、できなかったの。農業で他にはできなかったの。それでも仕方がなしにね、学校経営なんて。二人で始めて・・・。一番初めはね、コンセルヘイロ・フルタドなんです。それからサンジョアキンに行ったの。それからタマンダレに行って、それからベルゲイロにして、それからここへ来たわけ。


ブラジル 移住 (immigration)

日付:

場所: ブラジル

提供: Caminho da memória - 遥かなるみちのり. São Paulo, Brazil: Comissão de Elaboração da História dos 80 Anos de Imigração Japonesa no Brasil, 1998. VHS.

語り手のプロフィール

宮城県出身のミチエ・アカマ氏は、夫ジュウジと共に1930年に渡伯しました。海洋学者であった夫のブラジル海底動物相研究のためでした。渡航後まもなく、アカマ氏はブラジルにおける日系女性教育の第一人者として活躍するようになりました。当時は、農園で働き続ける家庭において、適齢期の娘を女学校へ通わせ、洋裁教育を与えることが最もよいと考えられている時代であり、アカマ氏は1993年に初の日本人・日系人を対象にした女学校を設立しました。ここでは日本・ブラジル両国をカバーするトピックを取り上げ、日本の倫理をベースにしながら、若い女性が新しい視点を持って社会で活躍できることを目指しました。(2007年6月22日)

アントニオ・シンキチ・シコタ

日本に移住した理由(ポルトガル語)

日本でブラジルの商品店を営む日系ブラジル人(1962年生)

アントニオ・シンキチ・シコタ

大泉町がブラジルタウンになった理由(ポルトガル語)

日本でブラジルの商品店を営む日系ブラジル人(1962年生)

サワコ・アシザワ・ウチムラ

引き上げ者に対する世間の態度(英語)

フィリピン生まれの引揚者、後にアメリカに移民(1938年生)

サワコ・アシザワ・ウチムラ

ロサンゼルスへ移住(英語)

フィリピン生まれの引揚者、後にアメリカに移民(1938年生)

二宮 正人

移民船内の生活について

サンパウロ大学法学部博士教授、弁護士、翻訳家(1948年生)

二宮 正人

両親がブラジル移住を決めたきっかけ

サンパウロ大学法学部博士教授、弁護士、翻訳家(1948年生)

二宮 正人

初期の日本人移民の職業

サンパウロ大学法学部博士教授、弁護士、翻訳家(1948年生)

二宮 正人

閉鎖的な日本人コミュニティ

サンパウロ大学法学部博士教授、弁護士、翻訳家(1948年生)

二宮 正人

勝ち組・負け組

サンパウロ大学法学部博士教授、弁護士、翻訳家(1948年生)

二宮 正人

移住当初も若干残っていた勝ち組

サンパウロ大学法学部博士教授、弁護士、翻訳家(1948年生)

二宮 正人

日本政府の日系人に対する誤った思い込み

サンパウロ大学法学部博士教授、弁護士、翻訳家(1948年生)

ビンス・オオタ

日本へ来たきっかけ(英語)

在日日系アメリカ人デザイナー

ルイス・ヤマダ

運の強い男(スペイン語)

二世日系アルゼンチン人 (1929年生)

バーバラ・カワカミ

ハワイへ再移住 (英語)

日本人移民の衣服専門家・研究者

バーバラ・カワカミ

写真花嫁と「仮夫婦」 (英語)

日本人移民の衣服専門家・研究者