ディスカバー・ニッケイ

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1944年の大統領選挙後まで収容所を続けた政治的理由(英語)

(英語) 収容所が1944年11月以降まで続いたのは、大統領選挙という政治的な理由があったからに間違いありません。私は委員会のスタッフでもある若手弁護士のドナ・コムレと相談して、「選挙が終わるまで収容所は閉鎖しないように」とはっきり書いてある書類、つまりもし収容所を閉鎖すれば反日グループの怒りを買い西海岸での選挙に敗れる可能性があることを示唆している書類のいくつかをブルック氏に渡しました。渡しした書類は司法長官や大統領側近(陸軍参謀総長)ジョージ・C・マーシャルのような政府高官或いはマックロイなど複数の要人によって書かれたもので、収容所が(早期に)閉鎖されなかった理由は別のところにあり、完全に政治的なものだったことを裏づけています。

(政府は)ルーズベルト氏が再選されるまで、(収容所閉鎖の発表を)控えたかった。だから(大統領が4期目の再選を果たし、そして連邦最高裁がエンドウに有利な判決を下した1944年の)12月になってやっと収容所閉鎖の発表をしたんです。ブルック氏は、これが公文書ということで、これで(大統領選が終了する)時期まで収容所が続けられていたことが政治的な理由からだったと立証できる、と大変喜んでおられました。


選挙 政府 投獄 監禁 政治学 政治 第二次世界大戦

日付: 1998年8月26日

場所: 米国、バージニア州

インタビュアー: ダーシー・イキ、ミッチェル・マキ

提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター

語り手のプロフィール

アイコ・ヨシナガ・ハージックは1924年、カリフォルニア州サクラメントに生まれました。熊本県出身のヨシナガ一家は、1919年に渡米し、世界恐慌の頃にカリフォルニア州ロサンゼルスへ引っ越しました。

第2次大戦中、初めは夫の家族とともにマンザナーへ収容されていました。その後、夫と離れ、生まれたばかりの娘と共に、実父母の収容されていたアーカンソー州ジェローム収容所へ転送されました。1944年、ヨシナガ一家は収容所を出てニューヨークへ移り住みました。その後、夫と離婚しますが、2世兵士と再婚しました。アイコは、占領下の日本で従軍することになった2番目の夫とともに、日本へ移り住みました。そこで夫の同僚であるジャック・ハージックと出会い、その後1978年に彼と結婚しました

アメリカ帰国後、Asian Americans for Actionの活動に参加するようになりました。補償運動の際は、夫ジャックとともにワシントンDCの国立公文書館で資料を集め、とても重要な役割を果たしました。公文書館からの資料はフレッド・コレマツ、ミノル・ヤスイ、ゴードン・ヒラバヤシの判決を取り消すための再審請求(coram nobis)でも重要な証拠としても提示されました。また、アイコはCommission on Wartime Relocation and Internment of Civilians(戦時中の民間人転住と収容 に関する委員会)の主要な調査員として任命され、法務省のRedress Administration(補償運動管理局)で補償金の受け取りが可能な個人を特定などに携わりました。 

2018年7月18日、93歳で亡くなりました。(2018年7月)

カズム・ナガヌマ

妹のキヨは彼にとって第二の母親のような存在だった

クリスタル・シティに収容された日系ペルー人(1942年生)

ミア・ヤマモト

父親の影響

(1943年生まれ) 日系アメリカ人トランスジェンダー弁護士

ベン・サコグチ

キャンプから帰ってきて

(1938年生まれ) 日系アメリカ人の画家、版画家