ディスカバー・ニッケイ

https://www.discovernikkei.org/ja/interviews/clips/1380/

天野氏と会う(英語)

(英語)日本への2度目の到着を果たすと、僕は彼女のお父さんに会うため、その足で藤沢に向かいました。それは当時の最高級リゾート地で、東京から南に約60マイル(約96キロ)の距離にありました。家に着くと、玻満子はお父さんと家の中に居て、「門のところで米兵が待っているわ。お父さんに話があるって」と言いました。するとお父さんは、僕が敵国人ということはもちろんわかっていたので、「追い出せ。関わりたくない」と言いました。玻満子は、「できないわ。彼は2年ぶりに日本に来て、私と結婚したいと言っているの」と言いました。

お父さんは玄関に出て来ました。お父さんは大きくて背が高く、立派で真面目な顔をした、怖い雰囲気の日本人男性でした。お父さんは、僕より目線が高いところに立っていました。家の間口は一段高いところにあり、入り口の門は吹き抜けになっているので、僕はお父さんを見上げる格好になるのです。僕は、これはやばいと思いました。お父さんは本当に真剣な顔をしていたので、僕は、「娘さんと結婚させていただきたく、お父様から許可をいただくため、カリフォルニアから戻って参りました」と言いました。その瞬間お父さんの表情が変わり、「入りなさい」と言ってくれました。お父さんは僕を、床の間のある良い部屋に招いてくれました。そしてそこにはあらゆる種類の日本のものが置いてありました。

僕は、とにかくもう楽しくてしょうがない気持ちになりました。玄関で靴を脱ぎ、畳の上を歩くことができ、お父さんは本当に優しくしてくれたのですから。


軍隊 (armed forces) 花嫁 軍隊 退役軍人 (retired military personnel) アメリカ陸軍 退役軍人 戦争花嫁 妻たち 第二次世界大戦

日付: 2012年1月26日

場所: 米国、カリフォルニア州

インタビュアー: ジョン・エサキ、西村 陽子

提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター

語り手のプロフィール

ハリー・シュナイダー氏(1916年生まれ)は、東京に駐在したアメリカ陸軍情報部隊員でした。ハリーは日系人ではありませんでしたが、事務処理能力の高さを買われ、サンフランシスコの陸軍情報部 (M.I.S.) 研修プログラムに採用されました。その後ハリーは二世兵士と共に日本語を学習することに関心を持つようになりました。第二次世界大戦直後の1948年、ハリーは妻の玻満子(はまこ)と結婚しました。第二次世界大戦終結時、アジアの「戦争花嫁」が米国へ入国するには、特別立法の制定が必要でした。1950年、ハリーと玻満子は米国に入国するため、東京の日本領事館で再び結婚し、2人は米国に渡った最初の夫婦の一組となりました。2013年6月、ハリーは97才で亡くなりました。(2014年6月)

ジミー・ナガヌマ

ペルーから米国へ強制連行(英語)

クリスタルシティに収容された日系ペルー人(1936年生)

モニカ・タイシャ―

フサガスガ強制収容所での祖父の話(英語)

米国在住の日系コロンビア人(1974年生)

モニカ・タイシャ―

フサガスガの強制収容所にいれられた祖父(スペイン語)

米国在住の日系コロンビア人(1974年生)

ジミー・ナガヌマ

クリスタルシティで歓迎を受けた家族(英語)

クリスタルシティに収容された日系ペルー人(1936年生)

ジミー・ナガヌマ

クリスタルシティでの最初の食事(英語)

クリスタルシティに収容された日系ペルー人(1936年生)

ジョージ・カズハル・ナガヌマ

クリスタルシティの雷

(1938年生まれ)クリスタルシティに収容されていた日系ペルー人

ジョージ・カズハル・ナガヌマ

軍隊で壁画や標識を描く

(1938年生まれ)クリスタルシティに収容されていた日系ペルー人

ジョージ・カズハル・ナガヌマ

軍隊でタイピストとして働く

(1938年生まれ)クリスタルシティに収容されていた日系ペルー人

ジョージ・カズハル・ナガヌマ

軍隊でバスケットボールをする

(1938年生まれ)クリスタルシティに収容されていた日系ペルー人

カズム・ナガヌマ

妹のキヨは彼にとって第二の母親のような存在だった

クリスタル・シティに収容された日系ペルー人(1942年生)

ミア・ヤマモト

父親の影響

(1943年生まれ) 日系アメリカ人トランスジェンダー弁護士