ディスカバー・ニッケイ

https://www.discovernikkei.org/ja/interviews/clips/1134/

昔と現代の海外移民の違い

まぁ、我々の時代っていうのは、もう日本がある程度よくなってからの時代ですからね。昔は日本っていうのは、生糸産業が主体で、あと要するに、嗜好品産業なのね。必需品産業じゃないの。必需品産業でやってるのはドイツなのね。薬とかね。だからああいう国っていうのはあんまり滅びないの。ところが、嗜好品産業っていうのは、もういらないって言われたらおしまいなんです。そういった国だから、すぐ貧乏なっちゃう。日露戦争やった時だって、あれアメリカとかあの辺が中に入らなかったら、日本はもう破産してしまってたの。

で、そういった国の時代に、日本を担ってたのは、やっぱり海外に出た人たちが、日本に送って、いろんな外貨を送って、日本を助けたと。こういう時代だったわけね。だから我々の時代は、今度は逆に日本がいいから出れるわけね。例えば、我々の両親が豊かだ。豊かということはないけど、両親がちゃんとしてるから、我々が海外に出て好きなことできるわけ。昔の人は、日本に仕送りした。これはえらいんですよ。我々は、勝手気ままに生きててね、親不孝ばっかりしてるわけだけど。昔の人はちゃんと日本へいろいろしてた。この違いが明らかにあるのね。


移住 (migration)

日付: 2007年4月18日

場所: ペルー、リマ市

インタビュアー: アン・カネコ

提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター

語り手のプロフィール

1953年7月11日、宮崎県西都市の老舗和食料理屋の4代目の息子として生まれる。6歳のころからレストランの厨房で遊んでいた小西氏は、11歳の時修業のため他の料理人候補たちと共に厨房の手伝いをするようになる。その後、16歳で上京し、1971年に料理屋「ふみ」のシェフになる。

1974年、アメリカや日本などで和食創作料理で知られている「NOBU」のオーナー松久信幸と共にペルーへ移住。「Matsuei」という和食レストランで10年間シェフを勤めた後、リマ市内のシェラトンホテルで「Wako」と「Toshiro’s」を開店。2002年には、サンイシドロ地区にある「Sushi Bar Toshiro’s」のマネージャーも勤めるようになる。

レストラン経営の傍ら、San Ignacio de Loyola大学でも教鞭を執っったり、世界各国の料理フェスティバルへも参加し、創作料理「ペルービアン・フュージョ ン」(日本とペルーの創作融合料理)を紹介し、数々の表彰を受ける。2008年には、ラテンアメリカに定住している日本人シェフでは始めて、日本政府より農林水産大臣表彰を受賞した。(2009年10月)

大友 八郎

娘が日本になじめず、再度アメリカ行きを決意

溶接業を営む新一世(1936年生)

高塩 明

ボーディングハウスでの荒れた生活

新一世、居酒屋と割烹のレストラン「本多屋」の社長

トム・ユキ

カリフォルニア州サリナスに移民として渡った家族(英語)

三世のビジネスマン(1935年生)

キシ・バシ

両親は新一世(英語)

音楽家、作曲家、ソングライター(1975年生) 

ミシェル・ヤマシロ

日本人がペルーへ移住した理由 (英語)

ペルー出身の両親を持つ沖縄系アメリカ人

ミツエ・ヤマダ

写真花嫁の集団と一緒にアメリカに渡った母(英語)

帰米二世、詩人、活動家(1923年生)

ミツエ・ヤマダ

日本から到着した母のためにアメリカの洋服を買った父(英語)

帰米二世、詩人、活動家(1923年生)