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日系アメリカ文学雑誌研究: 日本語雑誌を中心に

望郷の総合雑誌 - 『ポストン文藝』 その3/8

その2>>

2.『ポストン文藝』の創刊と目的

ポストンで最初に文学活動を開始したのは「ポストン歌会」で、1942年9月に第1回歌会が開かれたという記録がある。開所当時は印刷物の配布が禁止されていたため、歌会を開いても、そこで詠まれた短歌を印刷して配ることさえ許されなかった。

そこで川柳愛好者の矢形渓山と石川凡才(庄蔵)は川柳を書いた大きい紙を週に1、2回メスホール(食堂)入り口に貼り出した。36ヵ所の食堂に貼って歩くのに2日かかったというから、川柳にかける2人の熱意は大変なものだったといえる。2人は人びとが貼り紙の前に足をとめて作品を読んでほほえんだり、批評したりする姿と遠くから眺めて満足したという。これは文学好きの2人が炎熱の収容所に見出したささやかな楽しみであった。

『ポストン文藝』は第1館府で、前に述べた「ポストン歌会」を母体として発足したポストン文芸協会の雑誌である。英語名は『ポストン・ポエトリー』であるから、短詩形文学誌として創刊されたと思われる。『ポストン文藝』は住民の自治組織である統政部に属し、形式上はWRA社会奉仕局長の監督の下に置かれていた。

文芸協会はポストンだけでなく、他の9ヵ所の収容所およびニューメキシコ州サンタフェ、テキサス州クリスタルシティの2ヵ所の抑留所にもメンバーを持ち、1945年の終刊時の名簿には348名が載っている。このうち108名がポストン以外の人びとであった。

編集は創刊号から44年4月号までを松原信雄、有田百(ありた・はげむ)、矢形渓山が担当した。矢形とともに文芸活動を開始した石川は42歳で結婚し、花嫁とともにトゥ-リレイク隔離収容所へ去った。矢形もまたシカゴへの再転住を計画したため44年3月からは島原潮風、45年からは若い帰米二世の重富初枝が加わった。

『ポストン文藝』創刊の目的は、文芸によって収容所の生活になぐさめを見出すことであった。松原信雄は、「巻頭言」(44年7月)の中で、人間が人間らしい生活をするためには肉体の糧と精神の糧が必要で、心を養う糧として文芸はもっとも養分に富んだものであり、収容所の生活には不可欠であると述べている。「たとへ我々は不如意な環境に置かれてゐても、その環境に負けない丈の健全な精神力の養成が必要である。失望の為沈滞せんとする精神を慰籍してくれ、自暴自棄に陥さんとする精神を鼓舞激励して呉れるよき文芸こそ転住所の同胞に最も必要なものである」という彼の主張がこの雑誌の目的である。

質の高い文学の創造を目指した『鉄柵』や、青年に生活の指針を示した『怒濤』に比べると、『ポストン文藝』は広く一般の人びとが楽しめる雑誌であった。松原は和歌山県出身の呼び寄せ一世、戦前は父とともにカリフォルニア州リヴァーサイドでオレンジ農園の監督をしており、文芸とは縁遠い存在であったが、収容所内でものを書く楽しさを知って以来、『ポストン文藝』発行のために毎月奔走したという。彼は自分の「家」の戸口に「日本人、至る所悉く楽土と化さん意気を持つべし」と書いた札を掲げたというが、これは彼の思想をもっともよく表している。

収容所での生活が長引くにつれて所内の雰囲気は悪化した。収容者は忠誠者ばかりだったとはいえ、一世と二世の対立は深刻であった。一世の中にはWRAの人びとと英語を使って親しくつき合う二世を「犬」と呼んで警戒したり、非難する者も多かった。二世は次々と外部へ出て新しい生活を始めるが、取り残される一世は焦燥感にさいなまれた。「巻頭言」もそういった社会状況を反映して変化していく。44年9月になると松原は「他人の欠点や誤りを俎上に乗せてそれを非難し、罵倒したとて何の得る処があろう。結局それは自己の卑劣な心情を告白したにすぎず、第三者から蔑まれるに終わるのである」と述べて、閉塞状況の中でたがいに傷つけあう人びとに反省を促している。「巻頭言」からは人びとに和やかな気持ちを取り戻してほしいと願う編集者たちの気持がうかがえる。

『ポストン文藝』の編集室は先に述べた統政部の中にあった。統政部は一世および二世で構成されていたが、実質はWRAとおもに一世の住民をつなぐ組織であったことから、『ポストン文藝』に係ったのも一世であった。編集室にはつねに多くの一世が入れ替わり立ち替わり顔を出し、たいへん賑わっていたという。彼らはそこで収容所の行政、文芸の話題や世間話などに花を咲かせ、その中から『ポストン文藝』の記事が生まれた。安元時子(中林国子)は編集部の様子を、「編集部見たまま記」(43年5月号)、「判じ絵」(43年6月号)の中でユーモラスに描いている。

編集者の移動や多くの試行錯誤を経て、『ポストン文藝』は次第に充実した雑誌に育っていった。44年6月号から原紙の筆耕を担当したのは一世の瀧井謹平である。彼は非常に達筆で、このときから『ポストン文藝』は大変読みやすく、見た目も整った誌面をもつようになった。毎月100ページ近くの版下を作り続けることは、想像を絶する忍耐と努力を要したと思われる。瀧井は3時間ほど書いては趣味の尺八を吹き、気分を一新して再び書き始めるという具合に、楽しみながら書いたと述べている(終刊号)。

印刷ははじめ仏教会の印刷機を借用していたが、3号目から所内の印刷所で中嶋一が担当した。彼は収容前に印刷会社を経営していたので、その経験を生かして『ポストン文藝』の印刷に没頭した。オフセット印刷、毎号いろいろな人がデザインした表紙は4色刷りで、本文中には写真も掲載されている。この『雑誌集成』は残念ながら色刷りでないのでわからないが、たとえば45年7月号の表紙は、金魚の赤い色が鮮やかで、ぱっと目をひくデザインである。45年になると、印刷は進藤舟水(虎雄)が担当した。進藤は芸術写真家で、ロンドンの国際写真コンテストなどで入選した経験がある。彼は44年8月号の表紙をはじめ、たびたびカットや表紙のデザインを担当した。発行日の前には統政部員と日ごろ編集部に顔を出している常連を合わせて20人ほどが印刷所に集って、人海戦術で製本をしたとのことである。

ポストン文芸協会の人びと、1945年、収容所にて(重富初枝氏提供)

その4>>

* 篠田左多江・山本岩夫共編著 『日系アメリカ文学雑誌研究ー日本語雑誌を中心にー』 (不二出版、1998年)からの転載。

© 1998 Fuji Shippan

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About this series

日系日本語雑誌の多くは、戦中・戦後の混乱期に失われ、後継者が日本語を理解できずに廃棄されてしまいました。このコラムでは、名前のみで実物が見つからなかったため幻の雑誌といわれた『收穫』をはじめ、日本語雑誌であるがゆえに、アメリカ側の記録から欠落してしまった収容所の雑誌、戦後移住者も加わった文芸 誌など、日系アメリカ文学雑誌集成に収められた雑誌の解題を紹介します。

これらすべての貴重な文芸雑誌は図書館などにまとめて収蔵されているものではなく、個人所有のものをたずね歩いて拝借したもので、多くの日系文芸人のご協力のもとに完成しました。

*篠田左多江・山本岩夫 『日系アメリカ文学雑誌研究ー日本語雑誌を中心にー』 (不二出版、1998年)からの転載。