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望郷の総合雑誌 - 『ポストン文藝』 その2/8

その1>>

しかし収容者は協力してこの不毛の地を次第に人の住まいらしく変えていった。

まず人びとがしたことは、砂塵を防ぐための植樹であった。砂漠に生えているコットンウッドや柳の一種は厳しい環境に耐える強い生命力をもっていたので、挿し木で簡単に苗を作ることができた。収容者には農家も多かったので、このような作業は得意であった。木ばかりでなく、家の周囲には、デヴィル・グラスという芝草の一種も植えて芝生の代用にした。デヴィル・グラスは根が深く、畑にはびこると除去が難しい嫌われものの雑草であったが、このときばかりは砂嵐を防ぐ貴重な植物となった。さらにいくつかの公園、屋根つきの避暑施設などが造られた。

造園業にたずさわっていた人も多く、公園はその技術の粋を凝らして造られたようで、所内の新聞『ポストン・クロニクル』の日本語版『ポストン新報』にはその紹介の記事が多く見られる。たとえば第3館府のブロック306(収容者は306部落と呼んだ)には宮島風景を模した庭園、ブロック324にはサボテンを集めた「カクタス園」があったという(43年5月8日付)。それぞれのバラックでも趣味の池造りが盛んだったようで、四阿(あずまや)や太鼓橋をしつらえたり滝を流したり、コロラド川の水を利用して大小さまざまな規模の庭園が造られた。そうした工夫は自然の美を愛する日本人ならではと思われる。庭園の写真は『ポストン文藝』(44年5月号)に掲載されている。ここには世界的に知られた日系彫刻家イサム・ノグチが任意で入所していた。彼は人びとが憩うための庭園の設計を携えてWRAへの協力を申し出るが、期待に反してその設計は却下され、ノグチは失望してニューヨークへ去った。

人びとの努力のお陰で、入所1年後には砂嵐もいくぶんおさまって緑の木陰を楽しむことが出来るまでになった。建物はこの地方独特のアドベ(日干レンガ)で建てられた。アドベは土を水でこねて木枠に入れ、天日で干した簡単なもので、多くの一世の男女がこの作業に従事した。このときに収容者の手で建てられた学校の講堂および教室は現在でも残存し、保留地の学校の施設として使用されている。

ポストン収容所の講堂、現在も使われている(1994年8月筆者撮影)

暑さをしのぐために収容者は、通信販売や手作りのクーラーを備えるようになった。冬は短かったが、9月末にはオイルストーブが配られて暖房も完備した。他の収容所と同様に1942年5月には農地の開墾も開始された。そこでさまざまな野菜が栽培されたが、とくにキャンタロウプ(オレンジい色の果肉のメロン)やハネデュー・メロンなどが暑い気候に合っていて、多量に収穫されたようである。養豚や養鶏はもちろんコロラド川の水を利用して養魚池を造り、淡水魚の養殖も行われた。

所内には病院や売店もあり、最低の生活を営むに足りる施設は完備していた。日本人にとっては収容所は不足ばかりの耐乏生活であったが、同じ地域に隣接して住む先住民諸部族にとって、収容所の生活は羨むべきものであった。筆者が会った保留地住民の話によれば、収容所が閉鎖されたとき先住民は先を争って収容者が捨てた家具や衣類を拾ったという。彼らは戦前にアリゾナ北部の居住地を追われてポストンへの移動を強いられた。移動させられた点では日系人も同様であるが、先住民はそれ以上に苦しい生活を送っていたのである。

ポストンには野球や映画、ダンスといったアメリカ人なら誰でも楽しむ娯楽があったが、とくに一世にとっての楽しみは「芝居」であった。芝居はおもに歌舞伎で、それぞれの館府には花道を備えた立派な野外劇場が建てられた。器用な人が大道具、小道具を作り、素人でも俳優顔負けの上手な演技をする人がいた。収容所は余暇を楽しむゆとりのなかった芝居好きの人が、水を得た魚のように大活躍することもあった。日本舞踊や浪曲の公演もあり、それらは所内の新聞で早くから宣伝され、多くの人が押しかけて大盛況であった。

生活はいつも平穏であったわけではなく、ここでも一世と二世、二世と帰米二世、忠誠者と不忠誠者との対立があった。いわゆる「騒擾事件」が起きたのはポストンが最初である。1942年11月14日、ひとりの帰米二世が何者かに襲われ、2日後に2人の帰米二世が襲撃犯としてFBIに逮捕された。ところが、襲われた帰米二世は戦前から日系社会で評判の悪い人物であり、人びとへの中傷をWRAに密告しているという噂があった。逆に逮捕されたのはきわめて評判のよい若者であったため、人びとは刑務所を取り囲んで2人の釈放を要求し、それが1週間にわたるストライキとなった。これはのちに「ポストン騒擾事件」として知られた。1943年1月31日には全米日系市民協会の主要メンバーのひとりサブロウ・キドが親米派であるとして、8人から殴打される事件が起こった。戦争遂行のための努力の一環として計画されたカモフラージュネット工場もすぐには受け入れられず、実現までにかなりの時間を要した。

忠誠登録の結果、不忠誠者がトゥ-リレイク隔離収容所へ去ってしまうと、ポストンは平静を取り戻した。再定住のための準備が始まり、東部や中西部への新しい生活を求めて出て行く人びと、外部の農園に季節労働に行く人びと、志願して兵士となり入隊する人びとなど、収容所の人口はつねに流動していった。人口は次第に減少して終戦のころには最高時の半分になっていた。戦死の知らせも届き、収容所で追悼会が催された。人びとが流動して行く中、1945年11月28日に収容所は閉鎖された。

その3>>

* 篠田左多江・山本岩夫共編著 『日系アメリカ文学雑誌研究ー日本語雑誌を中心にー』 (不二出版、1998年)からの転載。

© 1998 Fuji Shippan

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About this series

Many Japanese-language magazines for Japanese Americans were lost during the chaotic times of war and the postwar period, and were discarded because their successors could not understand Japanese. In this column, we will introduce annotations of magazines included in the collection of Japanese-American literary magazines, such as "Shukaku," a magazine that was called a phantom magazine because only the name was known and the actual magazine could not be found, as well as internment camp magazines that were missing from American records because they were Japanese-language magazines, and literary magazines that were also included by postwar immigrants.

All of these valuable literary magazines are not stored in libraries or elsewhere, but were borrowed from private collections and were completed with the cooperation of many Japanese-American writers.

*Reprinted from Shinoda Satae and Yamamoto Iwao, Studies on Japanese American Literary Magazines: Focusing on Japanese Language Magazines (Fuji Publishing, 1998).

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About the Author

Professor at the Faculty of Humanities, Tokyo Kasei University. Graduated from the Graduate School of Japan Women's University. Specializes in Japanese-American history and literature. Major works: Co-edited and authored "Collection of Japanese American Literary Magazines," co-authored "Japanese Culture in North and South America" ​​(Jinbun Shoin, 2007), co-translated "Japanese-Americans and Globalization" (Jinbun Shoin, 2006), co-translated "Yuri Kochiyama Memoirs" (Sairyusha, 2010), and others.

(Updated February 2011)

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