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偉大なる彫刻家 ノグチ・イサムの生涯 -その1/9

ノグチ・イサムを語る前に、イサムの父、米次郎について少し語らなければならない。それは、イサムの人生の中で重大な原点でもあります。

イサム・ノグチの父 野口米次郎、1903年(28歳)(Wikipediaから転載)

父、米次郎は、1875年、愛知県津島町に生まれ、読書好きだった少年は、8、9歳で英語を学び、15歳で上京、慶応義塾に入学するも中退する。16歳までに知人を通じて米国の情報を得ていた。福沢諭吉が「人生は一六勝負のようなものだ」という文の言葉に、1893年、渡米を決意する。サンフランシスコに到着した米次郎には、多くの苦難が待っていた。

幸運にも求人広告を見て、1986年、詩人ウォーキン・ミラーを訪れる。オークランドの山奥の山荘で4年半過ごす、昼は家事などし、夜はミラーの詩集を読み更ける。ミラーは「本から得た知識などは何の役にも立たない、自分の目で自然を見なさい」と教えを受ける。しかし、米次郎の詩には、ウォーキン・ミラーの影響は何も見られない。ポーやホイットマンの詩に刺激され、カルフォルニアの美しい自然から啓示を受け21歳で書き上げたのが「Seen  and Unseen」(明界と幽界)であった。この詩集を自費出版することによってアメリカの詩壇に彗星の如く登場した。1899年、シカゴに行き「イブニング・ポスト」誌に寄稿し、数ヶ月後にニューヨークに移住、米次郎は、若干25歳で一躍有名になった。1902年、28歳の時、イギリスに渡る。ロンドンで「From The Eastern Sea」を発表。イギリスでも詩壇で評価され、ウイリアム・ロゼッテやアーサー・シモンズと知り合う。

1904年に帰米する。日露戦争が勃発する。1906年、慶応義塾大学の英文学の教授になる。1912年、オックスフォード大学で「日本の詩歌論」について講演する。米次郎はノーベル文学賞の候補に噂されるほど評価を得ていた。1947年、享年73歳で死去。亡くなる前に子供たちにもう一人兄弟がいることを告げる。もし、日本にやって来てお前たちを訪ねてきたら、暖かく迎えてやってほしいと告白した。後に、イサムが偉大な彫刻家になることも知らずに米次郎は、この世を去った。 (* 「文学大使」として日米の架け橋=野口米次郎(ヨネ・ノグチ)より参考)

「人生の白紙」 作/野口米次郎

     人には凡て人生の白紙を埋める夢が無くてはならない。
石の灯籠が何処に空間を満たすかを知らないとすると、園庭に価値はない。
木が影で地面を色取る芸術を持たぬとすると、木は何者でもない。
私の詩はただ白紙に過ぎないが、
私の友人は随意に来てその白紙に自分の夢を発見する。
もし私に芸術があるとすると、
それはわたしの友人を恍惚に目覚めさせる喚起の声に外ならない。

* * * * *

ノグチ・イサムは、詩人の野口米次郎とアイルランド系アメリカ人作家のレオニー・ギルモアとの間に、1904年11月17日にロサンゼルスで私生児として誕生した。

孤独の中で己を見つめ、自己との葛藤の中で育み、真の芸術の探求者として生涯を捧げた野口勇は、哲学、芸術の真髄を得てある次元を越えた存在であった。彼の知的創作は個を離れ小宇宙を形成し、やがて彼の観念的思考は大宇宙へと昇華するものであった。

父の米次郎は、18歳で渡米し、放浪生活の後、大学で教鞭をとっていた詩人を志すレオニーと知り合い、詩の翻訳などを見てもらっていた。米次郎は、21歳の時、英文で書いた詩文をアメリカの文壇に発表して、間もなく注目される存在となり、ニューヨークで25歳の若さで一躍有名になった。レオニーは、米次郎の翻訳を手伝う内に、米次郎の才能に魅せられ、一方的に恋するに至った。アメリカと英国で名を馳せ成功した米次郎は、その後、日本に帰国する事になる。その時、レオニーはイサムを身籠っていた。その事を知らされた米次郎はそのまま日本に帰ったとも言われているが、いずれにしても、イサムにとって不幸な始まりでもあった。

イサムが2歳の時、母レオニーはイサムを連れて日本にいる米次郎に会う為に日本を訪れる。米次郎は、帰国して2年目、慶応義塾大学の英文学の教授として迎えられていた。レオニーが尋ねた時には、すでに米次郎は日本人の妻を娶っていた。3ヶ月程、正妻のいる家にレオニーとイサムは居候することになる。その後、レオニーとイサムは、二人で神奈川県の茅ヶ崎に家を建て住むことになる。(米次郎が段取りしたのだろう)。しかし、それから一切、米次郎はイサムとレオニーのもとを訪ねることはなかった。イサムは、アメリカでも、日本人の混血児として好奇心の対象でしかなかった。日本の小学校に通うも、私生児として混血児として、いじめに遭う。イサムは、当然ながら登校拒否となる。母、レオニーはイサムを心配するあまり、近くの木彫り大工の所に通わせた。イサム少年は、木彫りに熱中した。自然に囲まれた日本の中で、自然を友に、自然の中に自分の興味を引くものを探し求めて行った。この事はイサム少年にとって幸運なことでもあった。イサム少年の生い立ちを想う時、ふと私はレオナルド・ダ・ヴィンチのことを思い出した。レオナルドは、富豪の商家の主が使用人に生ませた私生児であった。しかし、祖父が教養ある人物であった故に、レオナルドを自然の中で教育した。生まれた時から、孤独の中で育ったレオナルドは、自然を友とした。イサムも良く似た境遇にあった。・・・・・

幸せに育っている子供は、芸術の道に進む動機など生まれては来ない。不幸な孤独の中で、自分を見つめるところから、自分の対象物となるものを探すものだと思う。

イサム・ノグチ、1941年 (37歳)(Wikipediaから転載)

その2>>

*本稿は日墨協会 のニュースレター『Boletin Informativo de la Asociación México Japonesa』 139号(2009年9月)、140号(2009年11月)からの転載です。

© 2009 Koji Hirose

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