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日系アメリカ文学雑誌研究: 日本語雑誌を中心に

青年活動から生まれた文芸誌『怒濤』-その3/5

>>その2

収容所の出版物には当局の検閲があった。『怒濤』も例外ではなかった。

藤田によれば創刊号の記事は検閲にパスするよう慎重にことばを選び、すべて翻訳して提出した。これが承認されたのち、第2号からは翻訳を提出する義務を免除されたという。その後は日本へのそれぞれの思いをかなり自由に表現することができた。それは創刊号の「巻頭言」のなかで日本は「彼方のうましくに」「黎明の彼岸」と表現されているが、第3号では「純白の地に旭日を以って描かれた明るき世界」となって、日章旗のイメージをより鮮明に表していることからも分る。第3号が発行された1944年10月、日本軍はレイテ海戦で連合艦隊の主力を失い、11月には東京が空襲されるなど連合国が圧倒的に優勢であった。アメリカ本土への日本軍の攻撃もないという安堵から、戦時転住局は出版物に関してはあまり厳重な監視を行なわなかった。かつて比良青年会が危険分子の集まりとみなされて、幹部が逮捕、抑留されたころとは情勢がかなり異なっていた。

機関誌には「巻頭言」および「断想」というページがあり、青年たちを啓蒙する記事が掲載されている。これらによってこの機関誌の目的を明らかにしてみることにする。

創刊号の表紙には、嵐のなかを進む古代の戦士を乗せた船が描かれている。橋本京詩は巻頭言の詩「怒濤の如くあれ」のなかで、いかに苦難の道が待っていようとも怒濤のような勢いで対岸の「うまし国」日本へ向かって進んで行けと若者たちに呼びかけている。日系人にとって戦争はまさに嵐の到来であった。排日にもめげず、将来に希望をもって日々を送っていた若者たちは戦争によってその希望を絶たれてしまった。アメリカ市民権を有しながら収容所に追いやられた二世の中でも帰米二世は、戦争によってもっとも打撃を受け、翻弄された人びとであった。特に藤田や橋本など帰米して間もなく拘束された人びとは、アメリカ民主主義を純粋に信じていただけに、その市民権が蹂躙されたショックは大きかったといえるであろう。アメリカで暮らしてきた二世ならば、人種差別などが横行して民主主義がうまく機能していない社会を体験しているが、帰米二世はその点で非常に純粋であったといえるかもしれない。彼らは日本における教育年数などによって個人差はあるが、ほとんどが日本の軍国教育を受けていた。したがってアメリカ人としての権利が奪われたとき、心の拠り所を日本に求めたのは当然といえよう。

創刊号の「発刊の辞」のなかで藤田は、この雑誌が「現下の時代を認識し、新しき時代の秩序を建設せんとする若き青年の魂の修練場となり、青年の意気と情熱とが怒濤を基調として生まれてくるとすれば、本誌発行の目的も達せられるわけである」と述べている。つまりこの雑誌は若者たちに指針を示すことを目的とした。また同じ創刊号に丸山郁雄は「戦時体制下の日本」を書き、物価統制・増税・国家総動員などの日本の戦時政策について述べたのち、日本国内の人びとの生活の厳しさに比べて、収容所の人びとが安易な生活を送っていると警告している。丸山によれば、この戦争は聖戦であり、日系青年はたとえ戦争に直接参加できなくても鉄柵のなかで無為に過ごすことは許されない。将来は必ず役立つ人材となって日本で暮らすことを前提に日々を真剣に生きよと呼びかけている。このような啓蒙のことばは、収容所を精神修養の場にしようという比良青年会の目的をそのまま受け継ぐものであり、『怒濤』がその延長線上にあることを示している。

「断想」の内容を簡単に示すと次のようである。「現状維持派と現状打破派の対立は単なる泥試合にすぎない」「所内演芸会の低俗」(創刊号)、「青年団運営の日本語図書館が貸し出す本は大衆小説ばかり」「子供の行儀の悪さ」(第2号)、「一世・二世・帰米二世の区別を捨てて日本人として融和する」「有意義な国民学校体育大会」「鉄柵に押し込められているから何もできないという観念を捨てること」(第3号)、「純二世への日本人教育」「西部沿岸への再定住許可」(第5号)、「所内のスポーツは勝敗にこだわらず、健全な娯楽として楽しむべき」「怠惰な生活に慣れてはいけない」(第6号)、これらは「立派な日本人」になるために、青年たちがいかに収容所生活を送るべきかを示唆している。青年たちが低俗な演芸に拍手を贈り、大衆小説を楽しみ、盆踊りに興じ、スポーツの試合で勝敗にこだわる収容所の現実を批判している。贅沢や娯楽は敵とした戦中の日本のゆがんだ姿を「理想的」とみなして模範としているようである。しかし、アメリカで育った青年たちにどの程度理解されたかは疑問である。

このなかで「国民学校」ということばは奇異に感じられるかもしれないので、少し解説をしておきたい。他の収容所と同様にトゥーリレイクには、アメリカの法に基づく公立学校があった。しかしさらに1943年11月、収容者から資金を募って日本の教育に準じた「国民学校」が開設された。これは隔離収容所ならではのことで、日本への送還を希望した人びとが存在したために許可されたのである。この学校を援助する組織として「中央日本教育会」か結成され、一年後の44年10月に機関誌『練成』が発行された。この機関誌には「戦場に馳駆すべき秋である。国民総武装で、戦時産業に馳せ参ずべき身である。だが、それはどうにもならない吾々である。せめては後継者たる若い人々に児童に、皇国の道を徹底せしめたいと思うのである」(『練成』第1号「発刊の辞」)と書かれて、学校では徹底した皇国教育が行なわれていたことが分かる。学校は全部で8校あり、一校あたり、15、6人の教師がいて、初等及び中等教育が行なわれた。教科書は日本の国定教科書を複写したものの他、各学年用の『課外読本』および『作法要綱』があり、それぞれ15セントから30セントで販売された。青年団員には国民学校教師が多かったようである。土井静雄の「教壇に立ちて」(第7号)はみずからの国民学校教師の経験を書いたものであるし、牧さゆりの詩「理性」(第2号)、下田実「叱ること」(第2号)、茜しげるの新体短歌「教場の壁」(第4号)などから、彼らも教師であったことが分る。

その4>>

* 篠田左多江・山本岩夫共編著 『日系アメリカ文学雑誌研究ー日本語雑誌を中心にー』 (不二出版、1998年)からの転載。

© 1998 Fuji Shippan

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About this series

日系日本語雑誌の多くは、戦中・戦後の混乱期に失われ、後継者が日本語を理解できずに廃棄されてしまいました。このコラムでは、名前のみで実物が見つからなかったため幻の雑誌といわれた『收穫』をはじめ、日本語雑誌であるがゆえに、アメリカ側の記録から欠落してしまった収容所の雑誌、戦後移住者も加わった文芸 誌など、日系アメリカ文学雑誌集成に収められた雑誌の解題を紹介します。

これらすべての貴重な文芸雑誌は図書館などにまとめて収蔵されているものではなく、個人所有のものをたずね歩いて拝借したもので、多くの日系文芸人のご協力のもとに完成しました。

*篠田左多江・山本岩夫 『日系アメリカ文学雑誌研究ー日本語雑誌を中心にー』 (不二出版、1998年)からの転載。