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ある帰米二世の軌跡: 歯科技工士 ハワード・小川さん -その3

>>その2

フレズノへの「かなわぬ逃避」

1941年12月7日、ハワードさんと永松家の人々は、いつものように教会での礼拝を終えて家にいました。そのとき、ラジオで信じがたいニュースが流れたのです。日米戦争の勃発でした。戦争が起きたこと、そして高まる反日感情への危惧感などから、永松家の人々は家のなかでじっとしていました。これから何をすべきか、わからなかったからです。日系人にとって、日米戦争はありえない出来事であって、戦争勃発直後は多くの日系人が恐怖感におそわれたのです。

そして、永松家はひとつの決断をくだしました。それは、オレンジ郡を離れ、ジョージさんの弟であるトーマスさんが住むフレズノ郡のデル・レイへ住むことでした。住み慣れた地域を離れることは、非常に辛い決断でした。家を出ること、それは財産を放棄することにもつながります。数十年の時をかけて創りあげたかけがえのない家族、そして財産が水の泡になってしまいます。しかし、それが最善の選択であると信じ、ハワードさんも永松家と共にフレズノへ移住しました。

その後、大統領行政命令9066号によって、日系人の強制収容が執行されました。執行にあたっては、はじめにロサンゼルスのターミナル・アイランド地区と、シアトルのベインブリッジ・アイランド地区にいた日系人がマンザナーに収容されました。それを皮切りに、太平洋岸の主要都市に住んでいた日系人が次々と収容施設に送られていきました。しかし、その当時はまだ、フレズノなどカリフォルニア州内陸部にいた人々への強制収容は執行されていなかったので、永松家の人々は、フレズノにいれば全てを失うことがないだろうと考えていました。

しかしながら、フレズノにいた日系人も、まもなく収容施設に送られることになりました。ハワードさんと永松家の人々は、フレズノに住んでいた他の日系人とともに、足を運んだことのないアリゾナ州ヒラ・リバーの収容施設に送られることになりました。ちなみに、戦争の勃発までオレンジ郡に住んでいた日系人の多くも、アリゾナ州ヒラ・リヴァーもしくはポストン収容施設に送られました。

「囚われの身」となったハワードさんと、永松家の人々は、収容施設のなかにつくられた教会に通ったり、スポーツに興じたり、あるいは、農作業をするなどして、毎日を過ごしていました。

ジョージ・永松さん。ヒラ・リバー収容所にて。Photographer: Stewart, Francis -- Rivers, Arizona. 4/24/43 War Relocation Authority Photographs of Japanese-American Evacuation and Resettlement Series 2: Gila River Relocation Center (Rivers, AZ)

それぞれの「路」へ

日米戦争の戦況が、アメリカの優勢になるにつれて、アメリカ政府の日系人にたいする視線が軟化していきました。仕事を得たために、あるいは、教育を受けるために収容施設を出て行く日系人が少しずつ増えていきました。

運の良いことに、ジョージさんはユタ州で農作業の仕事を得ることができました。そのため、家族そろってユタ州に向かいました。一方、ハワードさんは、ほかの二世の若者と一緒に、教育を受ける目的でミネソタ州に向かいました。

反日感情が非常に高いカリフォルニア州とは異なり、当時の中西部には日系人の学生を受け入れる学校がありました。それは、教育の機会が失われていた日系人の若者にとっては、ひとつの希望の光でした。

ミネソタ州へ向かったハワードさんは、まずは手に職を得るため、歯科技工士の訓練を受けることにしました。昼は歯科技工士になるための勉強に励み、夜も大学でさらなる勉学を続けました。猛勉強のかいがあって、終戦直前には、彼は一人前の歯科技工士としてひとり立ちできるようになりました。

1943年、彼は妻となるアンさんと出会いました。アンさんは、両親が高知県出身の日系二世です。ふたりは1944年9月23日に結婚しました。終戦の直後の1947年に、ハワードさんはアンさんとともに、住みなれたカリフォルニア州に戻りました。

歯科技工士としての活躍

ハワードさんは1947年に、リトル東京にあったタウル・ビルディング(Taul Building)の3階に、自らの事務所、メトロポリタン歯科技工所を開設しました。このビルの中には日系人の医療従事者がおり、近隣には歯科医院を営む日系人が多くいたので、ハワードさんを頼って多くの人が事務所を訪れました。

事務所の経営は、歯科技工にかかわる仕事をハワードさんがすべてこなし、事務や経理の仕事をアンさんが一手に引きうけました。ハワードさんとアンさんの絶妙な二人三脚によって、メトロポリタン歯科技工所は成り立っていました。

さて、このハワードさんが事務所をかまえたタウル・ビルディングですが、リトル東京の一番街とサン・ペドロ街の交差点にありました。1980年代後半、タウル・ビルディングは地震による損傷を受けたため取り壊さなければならず、事務所も閉鎖せざるをえませんでした。しかし、タウル・ビルディングの取り壊しの直後、友人のトシ・ナカジマさんの援助もあって、ハワードさんはオニヅカ街に面したエンパイアー印刷所の事務所に、仮設の歯科技工所を設けることができました。

その4>>

© 2010 Takamichi Go

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