銃剣とブルドーザー=米軍に美田奪われた伊佐浜移民

終戦から10年目の1955年7月19日、「沖縄有数の美田」といわれた宜野湾市伊佐浜の土地、さらに家屋までが米軍によって強制接収された。土地を失った10家族が縁故のいない未知の国、ブラジルに移住したのはその2年後のことだった。「伊佐浜土地闘争」は強制接収に対する初期の抵抗運動として、その後の「島ぐるみ闘争」で象徴的に語られる史実となった。その一方、渡伯した人々がどんな人生を送ったかは、あまり知られていない。どのような想いで土地を奪われ、故郷を離れたのか。どんな思いを秘めてブラジルで生きてきたのか。3組の伊佐浜移民への取材を通して、激動の沖縄近代史の一端をたどった。全5回シリーズ。「ニッケイ新聞」からの転載。

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第5回 「人生で今が一番幸せ」

屋良家は1970年ごろに出聖して縫製業を始めた。家族総出で朝7時から夜12時まで働いた。屋良さんは「うちは姉妹が多くて縫物なら女、子供でもできた。寝る間も惜しんで働きました」と言う。

今は一人暮らし。週に一度、近郊のグアルーリョス市から息子が訪れる。屋良さんは「ブラジルに来たばかりのときは日本に戻りたいと思っていました。でも『住めば都』という言葉の通り、今はここが私の場所のように感じます」と話す。

「米軍に土地を奪われてブラジルに来たことをどう思いますか」と尋ねた。

数秒の沈黙の後、屋良さんは「昔のことは昔のこととして割り切らなくては」と静かに答えた。一方で「私たちが土地を取られたことを沖縄の人たちには忘れて欲しくない ...

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第4回 強制接収から2年、ブラジルへ

聖市カーザ・ヴェルデ地区在住の伊佐浜移民、屋良朝二(やら・ともじ)さん(78)の一家は戦前、フィリピン・ダバオでマニラ麻の農園に従事していた。戦争が始まると敵性国民として追い立てられ、他の日本人たちとともに避難生活が続いた。まともに食べる物がないなか逃げ回り、みんな足を悪くしたり、病気になったりした。このとき2人の兄弟を栄養失調で亡くしている。

戦争が終わって収容されたキャンプ地では、野外に張られたテントの中で過ごした。ここでも食べ物が不足していて「やっと日本に帰れる」と喜んでいた兄も栄養失調で亡くなった。

1年ほどキャンプ地で過ごしてから日本に帰ると、まず本土の病院に入院し、その後沖縄に戻った。伊佐浜には立ち入りの許可が下りていなかったので ...

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第3回 「犬コロのように追い払われた」

銃剣を構えた米兵とブルドーザー、クレーン、ダンプカー、トラックが現れたのは、7月19日のまだ日の昇りきらない早朝4時半のことだった。接収は前日の18日に予定されていたので、地主の一人は「予期はしていたが未明には思わず油断していた」(『琉球新報、55年7月19日夕刊』)とコメントしている。

午前5時には農地の周囲に鉄条網を張り巡らす作業が始まり、支援者や新聞記者たちははじき出されてしまった。農地に踏み入った米兵たちは住民たちの訴えに全く聞く耳を持たず、座り込んでいた老人たちは簡単に持ち上げられ、その場からどかされた。

抵抗すると銃尾で叩かれ突き飛ばされた。新聞記者が写真を撮ろうとしたが、米兵がフィルムを没収した。カメラごと奪い取られた記者もいた。当時23歳の澤岻さんも必死の抵抗を試みたが、数人の米兵に抑えられなすすべもなかった。

澤岻さんはここまで話を進めると少しの沈黙のあと、「四等国民は本当につらいものです」とつぶやいた ...

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第2回 戦中、機関銃で家族3人失う

「本当は戦争のことも、土地闘争のことも話したくありません」。そう切り出したのは伊佐浜移民のひとり澤岻安信(たくし・あんしん)さん(85)だ。昨年末、澤岻さんの知人宅で取材した際、同席した同県人にウチナーグチ(沖縄の方言)で促されるなか、戦中の体験から少しずつ語り始めた。

激烈な沖縄戦の最中の1945年4月、澤岻さんは13歳だった。母、弟、妹と普天間神宮近くの自然壕に身を隠していたところ、日本兵から米軍が来るから別の場所へ避難するよう指示を受け、暗い夜道を歩いていたという。

すると突然、照明弾が上がり辺りは昼間のように明るくなった。同時に「バリバリバリ ...

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第1回 「男たちに任せておけない」

終戦から10年目の1955年7月19日、「沖縄有数の美田」といわれた宜野湾市伊佐浜の土地、さらに家屋までが米軍によって強制接収された。土地を失った10家族が縁故のいない未知の国、ブラジルに移住したのはその2年後のことだった。「伊佐浜土地闘争」は強制接収に対する初期の抵抗運動として、その後の「島ぐるみ闘争」で象徴的に語られる史実となった。その一方、渡伯した人々がどんな人生を送ったかは、あまり知られていない。どのような想いで土地を奪われ、故郷を離れたのか。どんな思いを秘めてブラジルで生きてきたのか。3組の伊佐浜移民への取材を通して、激動の沖縄近代史の一端をたどった。

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聖市中心部から北に車で1時間ほどのカーザ・ヴェルデ区。ここには沖縄県系移民が多く住み、大通りにはいくつもの日本食商店がならぶ。60年代中頃から伊佐浜移民がサンパウロ州の奥地から転住し、現在は4家族が住んでいる ...

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