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アンセル・アダムス『自由、平等に生まれたのに 』外伝

これまでナンシー・マツモト、ジャスミン・アリンダー、エリナ・タジマ・クリーフなど、他多くの学者が写真家アンセル・アダムスの1944年の代表作『自由、平等に生まれたのに』について論じてきた。この本の背景、特にアダムスとハロルド・イケスとの接点は、今でもあまり知られていない。

第二次世界大戦の勃発時、アダムスは40歳に手が届く頃だった。すでに名を成した写真家であり、西部の風景写真の古典で称賛を集めていた。軍隊に入るには歳をとり過ぎていたため、アダムスは軍属として様々な服務についた。

矛盾するかもしれないが、アダムスが日系アメリカ人のためにひと肌脱いだ経緯にはある日系人収容者1の存在があった。1943年、戦前にシエラ・クラブの会員としてアダムスと旧知の仲であったマンザナの現場監督のラルフ・メリットはアダムスにマンザナを来訪し、収容所の敷地を写真で記録することを提案した。マンザナ収容所はカリフォルニア南東部の要衝に建設され、デスバレーから車で簡単に行ける距離にあった。アメリカ大陸のなかで最も低く、マンザナを囲むホイットニー山は南北アメリカの最高峰という土地柄であり、風景撮影を得意とするアダムスの琴線に触れる景観を湛えていた。

マンザナの街路の光景、雲。カリフォルニア州マンザナ収容所。アンセル・アダムス撮影。米国議会図書館提供

アダムスはまた、日系アメリカ人への同情と不公平な収容に強い怒りを抱いていた。それゆえにこの出張撮影は仕事の口と個人的な思念を結合できる絶好の機会と考えたであろう。1943年の秋、アダムスはマンザナ訪問を承諾した。メリットはアダムスに旅費を確約したが、アダムスは政府からであれ、特定の団体からであれ、公的な資金援助は断り、自費で赴いた。

撮影旅行から戻ると、アダムスは撮った写真を現像し、展覧会と書籍出版に向けて選別した。当初の計画では、その両方を『自由、平等に生まれたのに』と題し、ニューヨーク近代美術館(MOMA)での展示と写真集という形式で1944年9月に発表するはずだった。しかし、程なくして、MOMAでの展示は中止を脅かされることになった。

理由のひとつには、現実的な展示場の不足があった。MOMAは全館改装を進めており、写真センター直近に閉鎖されていた。その一方で、本館の企画展のスペースもすでに埋まっていた。より大きな問題としては、戦時中の敵国日本への敵意により、同館の上層部には日系アメリカ人の写真の展示は全面的に禁止せよと言うものもいた。アダムスと支援者の抗議により、最終的に同館の態度は軟化し、アダムスの展示は1944年の秋からに再調整された。

しかし、議論の末、アダムスは妥協を強いられ、展示での表現の変更を余儀なくさせられた。第一に、アダムスが提案した展示会名「自由、平等に生まれたのに」はより漠然とした「マンザナ」に変更された。他にも、写真に添えようと準備していた憲法修正第14条や、日系アメリカ兵の従軍記録などの重要な文書のいくつかの削除が命じられた。

合唱団、2人の歌手。カリフォルニア州マンザナ収容所。アンセル・アダムス撮影。米国議会図書館提供。

MOMAでの展示会は1994年11月に開始された。同館の公式プレスリリースでは全ての写真が忠誠心のある日系アメリカ人に関するものであることが強調され、以下のような追記がある。

「東はロッキー山脈のふもと、西はシエラネバダののこぎりの歯のような山肌に挟まれたマンザナ山峡。その平坦で広大な砂漠の地で撮影されたこれらの写真に見えるのは、試合の最中の野球場、裁断し、採寸し、服の縫製を学ぶ若い日本人女性、バレーボールに興じる高校生の年頃の児童、よく手入れされた巨大な共同農地の均整の取れたうね、バラック住宅に沿って伸びる幅の広いほこりの舞う街路、ボビーソックスを履いた登校中の少女、仮住まいの住人の手によりうるおいと住まいらしさを宿した住宅の内装、フリープレス新聞の編集室、乳児、青年、兵士、看護師、父と母、古老といった忠誠なるアメリカ市民たちの輝かしい横顔である」

野球の試合。カリフォルニア州マンザナ収容所。アンセル・アダムス撮影。米国議会図書館提供]

写真集の企画には紆余曲折があった。アダムスは長年寄稿していた美術写真と報道写真に特化した『U.S.カメラ』誌に企画を持ち込んだ。しかし同誌には記者とデザイナーが少なかった。アダムスは旅先から企画にあてがわれたたった一人の編集補佐と書簡か電話で連絡をとるより術がなかった。

『自由、平等に生まれたのに』初版。筆者個人蔵

最終的に、『自由、平等に生まれたのに—マンザナ収容所の忠誠なる日系アメリカ人写真集』は1944年の終わりに出版された。雑に印刷された赤いペーパーバックは2ドルで販売され、64枚のアダムスの写真が掲載された。

本のつくりには急ごしらえの痕跡が残っている。文と写真の順番は間違っており、アダムスの元の文は大幅に削られている。それでも、この本は偉業を成した。アダムスの写真の多くは至近距離から撮った人物の肖像写真であるが、日系アメリカ人の人間性と集団収容に対する日系アメリカ人の受け止めを力強く、深遠に物語っている。

強調しておくべきは、アダムスのこの簡素な写真集は真実を追求するドキュメンタリーではなく、ましてや風景写真家による人間の生態観察でもないことである。ここには抗議の様子や頑なに抵抗する収容者の写真はない。「ノーノーボーイ」や兵役拒否の話もでてこない。なぜか。本書の副題「忠誠なる日系アメリカ人の物語」が示すようにアダムスはある任務を背負っていた。

二世作家・美術家のミネ・オオクボは、本書の2年後にイラストによる回想録『市民13660号』を出版し、その後収容所に関する記事を含む『フォーチュン』誌の日本特集号にもイラストを寄稿した。オオクボと同様に、アダムスの主眼は日系アメリカ人が戦後社会の主流へ再編入されるべきことを世間に広めることにあった。これを成すためにアダムスは一世と二世を良きアメリカ人に見せる必要があった。

実際に本書の最後の「問題」と題された部分で、アメリカにおける民主主義の将来を映す鏡として日系アメリカ人に焦点をあてている。アダムスは日系アメリカ人の闘争はアメリカ全国民の闘争であるとし、だからこそアメリカは日系アメリカ人を擁護するべきだと次のように明言している——

「アメリカ市民としてわたしたちは寛容と公正を訴えることができるが、その訴えは動勢的で持続的でなくてはならない。晴れの日だけの憲法信者が寛容を是認し、民主主義のお題目を唱えることは容易であるが、こうした原則の逸脱に立ち上がり、存続させるために闘争するとなると話はまったく別ものとなる」。

アダムスはマンザナ出張撮影の開始時には当局との関係を注意深く避けていたが、最終的に写真集の出版時には公的援助を確保した。戦時転住局が事実の確認を行い、文と写真を承認した。アダムスは内務長官のハロルド・イケスという頼もしい味方を確保し、前書きを書いてもらった。大統領令9066号の審議時、イケスは発議された「避難」を必要のない冷酷なふるまいとして非難した。ルーズベルト大統領が1944年初頭に戦時転住局を内務省に移管するとイケスは日系アメリカ人の権利を勇敢に毅然と擁護した。

1944年4月13日、イケスは戦時転住局の移管後初となる同局に関する公式声明を発表した。イケス内務長官は日系アメリカ人とアメリカへの忠誠心を持つ移民の権利を強調し、戦時体制が必要とする期間を越えて収容されるべきではないと力説した。長官は西海岸の反日系アメリカ人団体を、「差別と憎悪」に基づいて日系アメリカ人問題を解決しようとし、過去に戦時転住局に対して「こんなリンチ集団にはくみしない」と反発した日系アメリカ人たちを告発したりする「プロの人種差別者たち」であるとして非難した。

その数週間後、1944年の春、イケスと副長官のエイブ・フォルタスは収容所開設にまつわる支援を陸軍省と財務省から勝ちとった。長引く収容がもたらす不当性と収容所内の日系アメリカ人への悪影響を大統領に「長期収容がなければ『アメリカにとって存在意義があり、アメリカへの忠誠心を持っている』はずの人々の心情を悪化させている」と進言した。しかし、大統領選挙戦の最中であったこともあり、ルーズベルト大統領は戦時の敵意に満ちた西海岸に日系アメリカ人が戻る許可を出すことに慎重であった。結果的に大統領はイケスに日系アメリカ人を小集団に分け全米各地に分散させるという既存の「移住」政策を継続するように命令し、隔離の撤廃を却下した。

数か月後、1944年11月の大統領選のあと、イケスは再度ルーズベルト大統領に隔離を撤廃し、日系アメリカ人が西海岸に戻れるように助力する行動を起こしてほしいと陳情した。『自由、平等に生まれたのに』がこのドラマに登場するのはこの時であった。

1944年のクリスマスにイケスはルーズベルトに自署入りの『自由、平等に生まれたのに』を贈呈し、自分の前書きが日系アメリカ人に対する大統領計画政策の指針になると進言した。しかし、任期終了が近づき、戦局の指揮に忙殺されていたルーズベルトは興味を示さなかったようである。それどころか、現存するフランクリン・Ⅾ・ルーズベルト図書館のメモによると、ルーズベルトは本書を未読のまま、他の贈呈品とともに、書斎に片付けるよう指示している。

最終的には『自由、平等に生まれたのに』は肯定的な評価を得たとアメリカ議会図書館に記録されている。実際に、サンフランシスコ・クロニクル紙では1945年3月と4月期のベストセラー入りを果たしている。これは日系アメリカ人の出版物としては刮目すべき業績と言える。しかし、ベイエリア以外での売れ行きはかんばしくなかった。

後年、新しい版が続いた。1988年には『マンザナ』と題され、ピーター・ライトと著名なジャーナリストであるジョン・ハーシーの前書きを備えた新しいアダムスの写真集が発行された。2011年にはハードカバー版の『自由、平等に生まれたのに』がスポテッドドッグ・プレスによって刊行された。この版では初版で見つかった名字や日付の誤りが訂正され、元収容者である写真家のアーチー・ミヤタケと活動家のスー・クニトミ・エンブリーの二人による随筆が加えられた。数十年後、アンセルの写真集の初版はコレクターアイテムとなった。作家であり、親友でもあるサナエ・カワグチからその初版をプレゼントされたとき、私は誇らしい気持ちでいっぱいになった。

1965年、アダムスは自らのマンザナの写真一式を米国議会図書館に寄付した。その写真集は現在も米国議会図書館ウェブサイトにてデジタル形式で閲覧することができる。

 

訳注:

1.アダムスの両親のもとで長年働いていた一世、ハリー・オオイエは、体調不良であったにもかかわらず、当局に逮捕されミズーリ州の病院に送られたという経緯がある。

 

© 2023 Greg Robinson

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執筆者について

ニューヨーク生まれのグレッグ・ロビンソン教授は、カナダ・モントリオールの主にフランス語を使用言語としているケベック大学モントリオール校の歴史学教授です。ロビンソン教授には、以下の著書があります。

『By Order of the President: FDR and the Internment of Japanese Americans』(ハーバード大学出版局 2001年)、『A Tragedy of Democracy; Japanese Confinement in North America』 ( コロンビア大学出版局 2009年)、『After Camp: Portraits in Postwar Japanese Life and Politics』 (カリフォルニア大学出版局 2012年)、『Pacific Citizens: Larry and Guyo Tajiri and Japanese American Journalism in the World War II Era』 (イリノイ大学出版局 2012年)、『The Great Unknown: Japanese American Sketches』(コロラド大学出版局、2016年)があり、詩選集『Miné Okubo: Following Her Own Road』(ワシントン大学出版局 2008年)の共編者でもあります。『John Okada - The Life & Rediscovered Work of the Author of No-No Boy』(2018年、ワシントン大学出版)の共同編集も手掛けた。 最新作には、『The Unsung Great: Portraits of Extraordinary Japanese Americans』(2020年、ワシントン大学出版)がある。連絡先:robinson.greg@uqam.ca.

(2021年7月 更新) 

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