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移動する人々:戦後帰米と戦後の日系移民

清野敏幸さん — その1:父の移民と母の帰国

「移民」というと、ある国から別の国へと移住したきり、のようなイメージを持たれる方もいるかもしれない。それぞれの国ごとの移民史では、そこに定住した人々の物語は記録されていきやすいが、行ったり来たり、また国や地域をまたいで移動し、生きていく人々の物語は、そのはざまの文化と言語の中で見えづらくなることもある。

ロサンゼルスの日本人コミュニティーと日系人コミュニティーの両方で暮らす中で、また全米日系人博物館での仕事を通して、「二世」「三世」「帰米」といった歴史的によく使われる言葉に付随する典型的なイメージとは異なった、それぞれの個人ごとの豊かな物語を持つ人々に出会う機会が数多くある。このシリーズでは、そうした環境の中で出会った、主に日本語を第一言語とする戦後の帰米・日系移民の方々の物語を記していきたいと思う。

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清野敏幸と妻のみどり。
このシリーズの最初に登場してくださるのは、戦後帰米の清野敏幸さん。アメリカで柔道をされている方なら彼の名をご存知の方も多いのではないだろうか。アメリカの柔道の殿堂入りをしている有名な柔道家である。とはいえ、彼の穏やかな風貌からは「跳腰(はねごし)」で知られた柔道家であることはすぐには推測しづらいのではないだろうか。

私が初めて敏幸さんにお目にかかったのは、広島市・長崎市の共催により、2019年に全米日系人博物館で開催した「きのこ雲の下で:広島、長崎と原爆」展の準備においてだった。当初の認識は、展示の準備に多大な力を貸してくださった米国広島・長崎原爆被爆者協会(ASA)の秘書の清野みどりさんの御夫君であった。ピンと背の伸びたその人と交わした言葉が英語であったのか日本語であったのか、はっきり思い出せない。どちらの言語もスムーズに話され、この方はどのような方なのだろうかと高い関心を持ったことを覚えている。

この原爆展のために、日系アメリカ人の被爆者である三世のハワード・カキタさんにお話をうかがっている最中に(ハワードさんのインタビュー映像はディスカバー・ニッケイに掲載)、ハワードさんがシルバーレイクのバージルビレッジ、かつて日系人が多く住んでいた「Jフラット」と呼ばれていた場所にあるハリウッド柔道道場に通っていた話になり、そのときに敏幸さんもそこで練習をされていたことを聞いた。帰宅してから、かつてその道場に通っていた日系三世の年長の友人に知っているかと尋ねると、「トシ!伝説の柔道家だよ」と興奮した返事が返ってきた。

原爆展が開幕し、ASAの方々が展示を見にいらしたときに、博物館の常設展にあるハートマウンテン・フェア・プレイ・コミッティーのフランク・エミの写真の前で敏幸さんと言葉を交わした。フランク・エミと、彼の弟のアート・エミもまたハリウッド柔道道場の一員で、フランク・エミとアート・エミはそこの師範であった。ハートマウンテン・フェア・プレイ・コミッティーは収容所という市民としての権利が奪われた場所から徴兵されることに異議を唱え、裁判を通して日系人の公民権を回復しようとした日系人の若者の集まりであり、フランクはその中心人物であった。

その後、2020年にCOVID-19によるパンデミックが発生し、ロサンゼルスには自宅待機命令が出て、博物館は臨時休館。再び開館して、敏幸さんにお話をうかがうことができたのは、2021年の夏、感染がいったん少し落ち着きを見せた時期だった(以下、敬称を省略する)。

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清野敏幸は、日本からの移民の父、清野松吉、日系二世の母、文子(ふみこ)の2番目の子供としてカリフォルニア州ロサンゼルスのホーソンに1938年10月26日に生まれている。父の松吉がアメリカに渡ったのは1920年のこと。松吉が10歳のときに先にアメリカに渡って農業を営んでいた長男の東一に呼ばれ、三男の一二と一緒に鹿児島県加世田市津貫から渡米している。

当時、ダウンタウン・ロサンゼルスのアラメダストリート添い、9thストリートと11thストリートの間には青果卸売市場があり、日系人の農家が多くそこで野菜や果物を売っていた。清野兄弟もそこに作った野菜を運んで売った。松吉はそのかたわらで、アメリカで学校にも通った。アメリカ名はジョーと言う。

清野松吉と文子の結婚写真。1936年。

一方、母の文子はアメリカ生まれの二世。彼女の両親はエルクグローブというサクラメント近郊の町で薬局を営んでいたが、文子が2歳の頃に家族で日本に引き揚げている。文子は日本で女学校を卒業。その後、日本に一時帰国した松吉と結婚し、1936年、19歳でアメリカに戻っている。

「母の家も鹿児島県加世田市の津貫です。僕のいとこもそうだし、そこからアメリカに来ている人も結構いて、あのあたりのほとんどどの家も誰かが(外国に)行っています」(敏幸)。

乗船記録を見ると、この1936年に松吉と文子がアメリカに戻った際、文子の弟も共にアメリカに渡っている。

この当時、1924年の移民法によって、「帰化不能外国人」とされた日本人はアメリカに新たに移民ができなくなっており、「写真花嫁」として日本から妻を連れてくることもできなくなっていた。またカリフォルニア州などでは異人種間の婚姻を禁ずる法律も存在したため、男女の人数が不均衡であった日系米国社会では、少なくない数の日系移民の男性らが生涯婚姻関係を持たないままであった。しかし、文子は米国籍を持つ日系アメリカ人であったため、移民ではなく、アメリカへの帰国であったのである。

その2 >>

 

© 2022 Masako miki

Judo Kibei Nisei Toshiyuki Seino

このシリーズについて

「移民」というと、ある国から別の国へと移住したきり、のようなイメージを持たれる方もいるかもしれない。それぞれの国ごとの移民史では、そこに定住した人々の物語は記録されていきやすいが、行ったり来たり、また国や地域をまたいで移動し、生きていく人々の物語は、そのはざまの文化と言語の中で見えづらくなることもある。

ロサンゼルスの日本人コミュニティーと日系人コミュニティーの両方で暮らす中で、また全米日系人博物館での仕事を通して、「二世」「三世」「帰米」といった歴史的によく使われる言葉に付随する典型的なイメージとは異なった、それぞれの個人ごとの豊かな物語を持つ人々に出会う機会が数多くある。このシリーズでは、そうした環境の中で出会った、主に日本語を第一言語とする戦後の帰米・日系移民の方々の物語を記していきたいと思う。