清野家は、戦争の直前にはホーソンに家を購入し、かなり大きな規模の農園を営んでいたという。しかし1941年、太平洋戦争が勃発。翌年、強制立ち退き命令を受けて、一家は自宅も農園も置いて立ち退いていくことになる。サンタアニタ競馬場に作られた集合センター(アッセンブリーセンター)を経て、俊一、敏幸、達夫と小さい息子3人を連れた松吉と文子は、アーカンソー州のローワー強制収容所へと送られた。そこで娘の弘子が誕生。そして北カリフォルニアのツールレイク収容所に1943年10月に移送され、1944年、ツールレイクで四男の勝幸が生まれている。
「ローワーには一年くらいいたと思います。その後で、ツーリレーキに移された。僕は4歳で全然覚えてないんですが、日系人の中でも反アメリカの人が結構いたもので、いろんな運動をやっていたらしいんですね。うちの父親もその日本は負けないと言って頑張っていた人たちの中に入っていたらしいですね。ツーリレーキでは父は別のところに送られて、あとは我々子供5人と母親が一緒に住んでいました。母親は大変だったと思います」。1943年、収容所を運営していた戦時転住局(WRA)は17歳以上の全ての収容者に「忠誠登録」を実施した。「出所許可願」と題されたこのアンケートにはアメリカに忠誠か、日本に忠誠かを問う質問があり、これによってアメリカに不忠誠とみなされたものは、隔離収容所となったツールレイク収容所へと移送されることになったのである。今はカタカナではツールレイクと記すことが多いが、収容者はカタカタでツーリレーキと呼び、漢字では「鶴嶺湖」と記した。
この全米各地の収容所から送られてきた「不忠誠」者らは、全員が熱狂的な日本支持であったわけでも、WRAがみなしたようにアメリカに不忠誠なトラブルメーカーであったわけでもなく、自らの祖国や何十年も暮らした第二の祖国に強制的に収容された怒りや絶望から日本寄りになった人もいれば、アメリカへの忠誠を問う質問にノーノーと回答した家族にただ付いてきた人などさまざまな理由や事情があった。
しかし、そのツールレイクに1944年には「即時帰国奉仕団」や 「報国青年団」といった極端に親日的なグループが作られていく。メンバーの多くは日本への帰国を希望する一世や帰米らであった。おそらくは松吉もその一人であったと推測される。
清野一家が松吉と再会したのは、日本へ帰る帰還船の船上だった。「父親はどちらかといえば日本的な考え方でしたし、ホーソンに帰っても家もないだろうしと日本に戻ることにしたようです。その頃のことは覚えてないですし、親は苦労をしたのであまり話したがりませんでした」。
© 2022 Masako Miki