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静かな戦士たち

ジミー・カナヤさん

「戦争(第2次世界大戦)が終っても、退役しなかったんですよ。そのまま軍隊に残って韓国に行きました」。少年時代から軍隊に憧れていたジミー・カナヤさんは朝鮮戦争、ベトナム戦争にも参加し、74年に引退するまで軍隊一筋のベテランだ。

「日本との戦争が終る前から、日本を占領した場合管轄の指揮官養成のためにと、日本の慣習、宗教、日本語の勉強をしていたのですが、二世の僕でさえ『どこに行きますか』くらいの日本語を教えることになって…。ところが、実際に戦争が終ると必要がなくなったらしく、日本語のクラス250人、全員が韓国に飛ばされました」とカナヤさんは笑いながら語る。「僕はたった1人の日系二世で、ソウルでもその後行った満州でも日系人、日本人と対応する係でした」

カナヤさんはオレゴン州クラカマスの農家出身で、1941年に20歳で入隊した。日米戦争が始まる前年の40年、海軍、海兵隊にも志願したがたらい回しにされ、41年になり、ようやく念願達成し陸軍に入る。同年代の友人が続々徴兵されるのを見て、徴兵の始まる21歳の誕生日前に志願した方が有利と考えたからだ。

家族はミネドカ(*)収容所で過ごす。農地は貸し付けてあったため、戦争中に奪われる事はなかったのが不幸中の幸いだ。

カナヤさんが442連合大隊、第3部隊の衛生兵として出陣したのは「ロスト・バタリオン」で知られる多数死傷者を出した大激戦の寸前、第3部隊が衛生兵として第100部隊から分離した43年2月のことだ。だがドイツ国境に近いフランスのヴォージュ山脈付近、ブルイェールを占領し、ビフォンテーンで第100部隊の負傷者の救済に当たった時、カナヤさんはドイツ軍に捕まってしまう。

「我々4人の衛生兵で6人の重症の負傷者を山を越えて運ぶのに夜中は大変だと言うので、夜明けを待ったんです。そうしたら朝までにもう2人増えて、荷物もあるし、ちょうどドイツの捕虜が37人いたので彼等に運ばせようということになって」

ドイツ兵を見張る3人のガードと歩行可能な4人を含む11人の負傷者、4人の衛生兵と捕虜との大行進は、峠までの距離の半ばで50人ほどのドイツのパトロール隊に見つかってしまい、捕虜収容所に連行される。

「ドイツ軍はジュネーブ会議のルールを厳しく守っていました。だから割合丁重に扱われました。ただ中には僕の腕時計を持って行ってしまった司令官がいて、我々が味方のいる付近を通過した時にはいったん返してくれましたが、ドイツ軍の固めた領土に入るとまた取られました」

戦争体験の中で今でもカナヤさんの鮮明に思い出すことは、脱走の試みだ。6カ月の捕虜生活の中で、3度脱走を試みている。1回目は白人の指揮官のグループと一緒だったが、すぐに捕まり逆もどり。脱走というより、ドイツ軍の手から離れたというほうが正しい。ポーランドですぐ後にロシア軍がいると分かったドイツ軍はカナヤさんたちを置き去りにし、いったん逃げたがすぐ戻ってきて、また捕慮になってしまった。

2回目の脱走はドイツ国境あたりで味方の戦車が援護にやってきた時のこと。大虐殺のように激戦になったのを目の当たりにした。「戦車の兵士は全員殺されたか負傷したかして、無残でした。無事に味方には戻れないと判断して、また敵の捕虜収容所に降参の旗を揚げて帰って行きました」

45年4月になり捕虜の移動が行われた。最後の脱走はババリアン・アルプスの方角に行進していた時のことだ。移動し始めて2時間後、味方の戦闘機に襲われそうになった時、一斉にハイウェイの両端に降りろとの命令があった。10分後、ドイツ軍の「戻れ」の指示にカナヤさんは従わなかった。「この時脱走しようと心に決めていたんです」というカナヤさんは、1週間ほどさまよい続けたのち、食料不足、下痢のため降参しようと捕虜収容所に戻った。その1日半後には米軍が救済に来、カナヤさんの中で戦争は終った。

終戦後、一時ポートランドに戻り、以前のハンディマン(便利屋)の仕事もよかろうとボスに当たってみるが、軍隊が支給する月190ドルは支払えないとのことで軍隊に戻ることを決意する。「僕は高校の3年までしか学歴がなかったんです。でも軍に残ると学校に通わせて貰えて、どんどんいい地位をもらえるんです。初めの頃はなかなかうまく行きませんでしたがね。修士号や博士号を持った人たちと争うんですから」と、19年かけて修士号を取った経緯を語る。1968年アラスカ大学から教育学で修士号を取得した。

カナヤさんの育った時代と現代の若者の時代とは様子が違う。今はどこでも教育が受けられるからか「最近は日系人は軍隊にあまり見られない。教育を受けるには最高なのに」と残念そうな表情を見せる。教育が受けられること、それは戦争中には考えられなかった自由のひとつだ。「その自由が与えられていることに感謝を忘れてはいけない。どんな人でも同じ様に生きる権利が与えられるように、戦う自由がある」と穏やかに語るカナヤさんは、教育がその自由を得るための自尊心をもたらすことを知っている眼をしていた。そして彼の横には、半世紀連れ添いカナヤさんの信念を支えてきた妻キミさんの、黙ってうなずく笑った眼があった。

*ミネドカは、当時の一世、二世の発音のかな書き。現在の表記は「ミニドカ」だが、「ミネドカ」は単なる地名ではなく「収容所」を指し、彼らの特別な感情がこもっている。

 

*本稿は、2004年『北米報知』へ掲載され、2021年7月10日に再び『北米報知』へ掲載されたものを許可をもって転載しています。

 

© 2004 Mikiko Amagai

442nd Europe Oregon Portland veterans world war II

このシリーズについて

1942年2月、日本軍が真珠湾を攻撃した2ヶ月後、故ルーズベルト大統領の発令9066のもと、約12万人の日本人、日系人が収容所に送られた。その3分の2はアメリカ生まれの二世達。彼らの生き様は主に2つに分かれた。「アメリカに忠誠を誓いますか」の問いに「NO」と答えた「ノーノー・ボーイ」と、強制収容所から志願または徴兵され「442部隊(日系人のみで編成された部隊)」または「MIS(米国陸軍情報部)」でアメリカ軍へ貢献した若者たちだ。高齢になりようやく閉ざしていた口を開いた二世の戦士達。戦争を、体を張って通り抜けて来た彼らだからこそ平和を願う気持ちは大きい。その声を13回に分けてシリーズでお届けする。

*このシリーズは、2003年に当時はまだ健在だった二世退役軍人の方々から生の声をインタビューした記事として『北米報知』に掲載されたもので、2020年に当時の記事に編集を入れずにそのまま『北米報知』に再掲載されたものを転載したものです。