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ハワイ日本移民史とブラジルの繋がり - その1

『ハワイ日本人移民史 1868~1952』(ハワイ移民史料館 仁保島村 館長 川崎壽(ひろし)著、2020年刊)

突然、日本の友人から『ハワイ日本人移民史 1868~1952』(ハワイ移民史料館仁保島村 館長 川崎壽、2020年刊、3800円、以下『ハワイ移民史』と略)が郵送されてきた。

日伯間の郵便業務は昨年4月から停止されていると思ったから、ビックリした。一部は業務を再開しているようだ。とはいえ2月にSAL便で出して6月末着、4カ月間だから通常の2倍ぐらいかかっている。

「ハワイ移民史料館仁保島村」という存在自体、初めて知った。広島県広島市南区仁保にある私設資料館だ。入場料は無料だが、メールなどで事前連絡が必要とある。

送ってくれた友人の手紙には《この本には館長の移民に対する溢れんばかりの情熱が凝縮されています》とあるが、その通りだ。A4判、全247頁には図版が満載されており、舌を巻いた。

館長の本業は建築業らしいが、忙しい本業の傍らコツコツと長い時間をかけて移民資料を集め、自分でこの資料館を建て、その収蔵品を織り込みながらこの移民史を編纂したようだ。

川崎館長が書いた序文には、ハワイとの関わりが紹介されている。姉がハワイの戦前移民だった関係で、真珠湾攻撃後、カリフォルニア州にあった最も反米的だった移民が集められた強制収容所に家族まるごと送り込まれたようだ。

いわく《私の義兄(従兄)は極めて反米的であるとしてハワイで逮捕され、アメリカ本土のツールレイク収容所に抑留されました。妻(長姉)と子供4人の家族全員が同行しました。戦後解放されると、驚くことに広島県呉市に置かれた英連邦占領軍司令部の通訳兼運転手として、姉は士官クラスの食堂の賄い方としての職を得て帰国して来ました。住宅が見つかるまで数カ月の間、我が家に滞在していました。生まれて初めて長姉との対面、そしてこれが私と〝ハワイ〟との出会いの始まりでした》(2頁)とある。

ハワイ移民史料館仁保島村の写真(同サイトより)

同史料館サイトの館長あいさつには、さらに深い関係が記されていた。

《私の父は、ハワイ島のヒロのプランテーションでサトウキビ列車の機関手として働いた経験を持ちます。兄1人・姉4人はハワイボーン、ハワイに永住しています。もちろん全員アメリカ人です。私は横浜生まれ、同じ兄弟でも生まれながらにして国籍を異にしています。

太平洋戦争の最中は敵と味方に分かれました。父の弟妹は5人もハワイに移民、全員が渡航以来定住し、それぞれの家庭を築いています。これらの家族は3・4・5世の時代を迎え、今やその人数は在日本の我が家系を遥かにしのいでいます》との自己紹介が書かれている。

つまり、日本の血筋を継ぐために館長は本家に残され、それ以外はハワイに移住したような家系に見える。家族ぐるみの深い繋がりが今もあるから、これだけの作業が根気よくできるのだと納得した。

米国の排日運動を受けブラジルに転住する流れ

『海外移住統計』(JICA、平成6年10月版)によれば、戦前に世界へ出た日本移民の数を県別に調べると、広島県が断トツ1位だ。約9万7千人にもなり、全移住者の約15%を占めている。ハワイから始まり、世界に散らばっている。2位が沖縄県、3位が熊本県と続く。

ブラジルに限ってみると、戦前戦後合わせて一番多いのは熊本県の2万3575人、2位は沖縄県で2万449人、3位が福岡県の1万9509人、4位が北海道、5位に広島県が来る。

そして何より、米国日本人移民は、ブラジル日本人移民にとって「兄貴分」だ。明治時代にはアメリカ行きが全盛となったが、日露戦争(1904~5年)に日本が勝利したことで、欧米に危機感が生まれて黄禍論となり、日本移民排斥が強まった。1905(明治38)年にカリフォルニア州議会が排日法案を提出して1913(大正2)年に成立するという黄禍論の高まりをみて、北米に見切りを付けた者が南米に活路を求めた。

つまり、米国が門戸を閉じなければ、ブラジルが世界最大の日系社会を持つ国にはならなかった。

例えば、日本力行会は元々米国への送り出しが中心業務だったし、ブラジルには縁が深い永田稠2代会長も元米国移民だ。

だからブラジルへの初期移民の多くは、米国からの転住者だった。1915年に初入植したモツーカの東京植民地、アリアンサ移住地の初期も米国転住者が多かった。

だいたい我々邦字紙の創世記を先導したのは北米からの転住者だった。

ブラジル初の邦字紙である週刊『南米』を創立した星名謙一郎は、ハワイで日本語新聞経営に携わった経験を持っていた。1887年、東京英和大学(現青山学院)卒業後、中国上海へ。移植民に興味を持つようになり、1891年までに契約労働者としてハワイに渡った。甘藷農園ではたらき、労働条件改善のためにストライキを先導したりしている。キリスト教の伝道でも活躍し、1895年からホノルルに出て、税関の通訳をしながら日本語新聞『日本週報』の刊行に関わっていたという。

このハワイ初の邦字紙『日本週報』は1882年創刊。その写真は『ハワイ移民史』74頁に出ていたが、星名の姿は無かった。星名が『南米』を創刊するのは1916年だから、36年後。ハワイの歴史は古い。

『移民の快傑・星名謙一郎の生涯 ハワイ・テキサス・ブラジル』(飯田耕二郎著、不二出版、2017年)

その詳しい経緯が『移民の快傑・星名謙一郎の生涯 ハワイ・テキサス・ブラジル』(飯田耕二郎著、不二出版、2017年)で描かれている。

〝邦字紙創立請負人〟のように3紙の創立に関わる輪湖俊午郎、『ブラジル時報』創立者の黒石清作、『ノロエステ民報』の梶本北民、移民向け教養雑誌の最初『塾友』を創刊した小林美登利らも、北米での苦い経験から、できるかぎり伯国政府を刺激するような批判をさけ、移民の側が適応すべく自粛するような内にこもる論調をつくり、批判するなら移民会社や日本政府という基調を全体的に形成していった。

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*本稿は、『ニッケイ新聞』(2021年6月29日)からの転載です。

 

© 2021 Masayuki Fukasawa / Nikkey Shimbun

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