ジャーナルセクションを最大限にご活用いただくため、メインの言語をお選びください:
English 日本語 Español Português

ジャーナルセクションに新しい機能を追加しました。コメントなどeditor@DiscoverNikkei.orgまでお送りください。

war

ja

一世の記録を拾い集めた男 ~加藤新一の足跡をたどって~

第16回 抑留され、交換船で帰国

日米開戦となってから、日系新聞の編集長という日系コミュニティーの指導的な立場のひとりとして、自身の身に起ったことについて、加藤新一は詳しく記録に残していない。ただ、「日米開戦でモンタナミゾラ抑留所に監禁され、同年六月紐育から第一次交換船で帰国」(「米國日系人百年史」)とあるだけだ。

1941年12月8日未明(ハワイ時間12月7日)、日本軍はハワイの真珠湾を攻撃。その数時間後には、アメリカ連邦捜査局と移民局の人間が、日本人、ドイツ人、イタリア人の家々をまわり、あらかじめ用意されたリストにある一世の男たちを逮捕、連行していった。彼らの大部分は日本語教師、新聞編集者、仏教の僧侶など、地域のコミュニティーのリーダーだちだった。


モンタナ州、ミズーラ抑留所へ

逮捕された男たちは、その後事情聴取を受け、釈放されるものもあったが多くが敵性外国人として、在外外国人抑留所に送られた。主な抑留所は、クリスタルシティー(テキサス州)、ケネディー(同)、シーゴビル(同)、フォートリンカーン(ノースダコタ州)、フォートスタントン(ニューメキシコ州)、オールドレイトンレンチ(同)、ローズバーグ(同)、サンタフェ(同)、クースキア(アイダホ州)、フォートミズーラ(モンタナ州)、サンドアイランド(ハワイ)である。

これらは、のちにアメリカ西海岸などに住む日系の1世と2世、約12万人が送られた全米各地の強制収容所とはちがって、アメリカ司法省と陸軍によって運営されていた。 

本人の言葉を借りれば、加藤が「監禁」されたのは、ロサンゼルスから北東に約2000キロ離れたモンタナ州にあるフォートミズーラ(Fort Missoula)という抑留所(camp)だった。

ミズーラ抑留所へ到着した日本人抑留者たち。

アメリカ大陸では、17世紀から開拓を続ける白人入植者とネイティブ・インディアンとの間で戦いが続けられていたが、フォートミズーラは、いわゆるインディアン戦争(Indian War)のため1877年に白人が築いた基地だった。ここに日米戦争がはじまると日系人やイタリア系の者約2200人が収容された。


捕虜交換のような日米交換船

抑留所に収容された日本人は、官吏をはじめ商社・銀行員、ジャーナリスト、学者などアメリカの日本人コミュニティーに大きな役割をもつ人物たちだった。同じように、日本や日本の支配下の地域にも開戦後、アメリカの日本人と同じような立場のアメリカ人がいた。両者は、互いに人質のような関係であり、そこで対米、対英に捕虜の交換のように両者を交換しようということになり、中立国を介してこの交渉を行った結果、1942(昭和17)年5月、交換に関する協定が結ばれた。

これを実行に移すために使われたのが「日米交換船」である。日本側、アメリカ側双方から、相手国側の人間を乗せた船を出し、決められた第三国の港に集合する。そこで、乗船者を“交換”するという仕組みである。日米交換船の場合、アメリカ側では交換船はニューヨークから出航することになった。したがって、交換船に乗るものは全米各地の抑留所などから最終的にニューヨークへ集められた。

加藤本人の記録はないが、同じようにアメリカにいて交換船で帰国した哲学者、鶴見俊輔が、文芸評論家の加藤典洋と作家の黒川創を前に語り、加えて黒川が交換船の記録をまとめた「日米交換船」(新潮社)のなかに、抑留から交換船での帰国までの模様が書かれている。

鶴見は当時東海岸、ボストンのハーバード大学に留学していて拘留され、メリーランド州のフォートミードに抑留されたのち交換船に乗るが、サンフランシスコ周辺の日本人商社員らの場合は、開戦から数日のあいだに百人あまりが逮捕され、移民局の留置場に収容され、その後モンタナ州のフォートミズーラ収容所に送られた。

その途中で、ロサンゼルス港ターミナル島の合衆国監禁所などから送られてくる日本人の被収容者と合流して護送列車は北上して、三日目の午後荒野のなかに2,30棟のバラックを鉄線で囲ったフォートミズーラ収容所に着いたという。西海岸からの話は、当時同盟通信のサンフランシスコ支局長の秋山慶幸の「同胞抑留生活の実情」がもとになっている。

では、抑留所から交換船に乗るまではどのような経路をたどったのか、これも加藤の場合はわからないが、鶴見がいたフォートミード抑留所では、交換船に乗って帰国することを希望するかどうかがアメリカ側から質問され、これに答えたのち帰国者が発表された。この段階で帰国はせず残留することを選んだものもいた。


交換場所は東アフリカのロレンソ・マルケス 

アメリカ側は交換船の詳細についても発表した。使用する船は、中立国スウェーデンのグリップスホルム号(1万8000トン)で、北米をはじめカナダ、メキシコ、中米、南米に在留の日本人が乗船することになった。この船は、ニューヨークから出てブラジルのリオデジャネイロでも人を乗せたのち、東へ向けて大西洋を横断し、アフリカ大陸の南端、喜望峰を回り、同大陸東側に位置するポルトガル領のロレンソ・マルケス(現在のモザンビークの首都マプト)で、日米両国の人間を交換することが明らかにされた。

一方、日本側では、日本郵船の浅間丸(1万7000トン)とイタリア船籍のコンテ・ヴェルデ号(1万9000トン)がその任務につくことになった。浅間丸は横浜を出て香港、サイゴンで現地からの帰還者を乗せ、コンテ・ヴェルデ号は、上海から中国の日本占領地からのアメリカ人を乗せて出航、両船ともシンガポールを経由し、インド洋を西に向かって横切りロレンソ・マルケスを目指す。

おそらく加藤も帰国を希望したから交換船に乗ることになったはずである。妻子については、このとき一緒に帰国したのか、1940年に帰国した時にそのまま広島にとどまっていたかは不明である。

いずれにせよ開戦からおよそ半年後、ようやく日米間の「交換」の手続きがととのい、1942年6月18日午前零時前、アメリカ側の第一次日米交換船グリップスホルム号はニューヨーク港を出航した。乗船者の数については、外務省の資料から日本人1066人、タイ国人17人の合計1083人と記録されている(「日米交換船」より)。このなかに加藤も含まれていた。

グリップスホルム号は、一路南下し赤道を越え、7月2日ブラジルのリオデジャネイロに寄港、4日には同港を離れ東へと進路をとり、7月20日ロレンソ・マルケスに到着した。

一方、グリップスホルム号から一週間遅れた6月25日、浅間丸は横浜港を出港、そして29日にはコンテ・ヴェルデ号が上海港を出航、ともに7月22日にロレンソ・マルケスに到着した。翌23日には乗船者の交換がはじまった。日本側の2隻に乗っていた者は、船を下りニューヨークから来たグリップスホルム号に乗り換え、反対にグリップスホルム号に乗っていた者は、そのうち北米組が浅間丸に、中南米組はコンテ・ヴェルデ号に分かれて乗船した。

こうして「交換」を終えると、日本側の浅間丸とコンテ・ヴェルデ号は7月26日に、そしてアメリカ側のグリップスホルム号は、同28日にそれぞれ自国へと踵を返し、日本側2隻は8月20日に横浜へ帰還、アメリカ側1隻は同25日にニューヨークへ帰還し、交換は無事終了した。

横浜の港に下り立った加藤のその後詳しい足取りはわからないが、まもなく郷里の広島で、戦渦の日々を経験することになる。

(敬称一部略)

第17回 >>

© 2021 Ryusuke Kawai

exchange ships Fort Missoula Gripsholm Japan Journalist Montana Shinichi Kato world war II

このシリーズについて

1960年前後全米を自動車で駆けめぐり、日本人移民一世の足跡を訪ね「米國日系人百年史~発展人士録」にまとめた加藤新一。広島出身でカリフォルニアへ渡り、太平洋戦争前後は日米で記者となった。自身は原爆の難を逃れながらも弟と妹を失い、晩年は平和運動に邁進。日米をまたにかけたその精力的な人生行路を追ってみる。

第1回から読む>>