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須藤かく —日系アメリカ人最初の女医— 第2部

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アメリカ留学

須藤、阿部、ケルシーらが横浜からアメリカに旅立ったのは1891年のことであった。二週間の船旅の後、サンフランシスコから大陸横断鉄道を利用して、まずはケルシーの故郷ニューヨーク州カムデンに向かった。ケルシーの母、アマンダは1871年に亡くなっていたが、父アサは90歳になってもまだまだ元気で、農業、共和党、教会の活動などで忙しかった。

アメリカへ着いた須藤と阿部は、まず、ケルシーの兄サムエルが住む近隣のフェアポートでアメリカの文化、習慣、マナー、語学を学んだ。その後、ペンシルベニア州フィラデルフィアの電気治療学校で学び、1892年にオハイオ州のシンシナティー女子医科大学(在学中ラウラ・メモリアル女子医大と名称変更)に入学する。

シカゴの新聞に載った須藤かくと阿部はなのイラスト(『Chicago Daily Tribune』1897年9月13日)

女子医大の授業料2500ドルを稼ぐため、二人は全米の22州以上の長老会教会を廻り、着物を着て、お茶や楽器を演奏し、日本文化を紹介して、寄付を集めた。一方ケルシーは、二人の授業料をサポートするため、日本で診察したお礼として患者からもらった品を売った。この時に売った漆工芸、鎧、日本刀、書画などは、現在でもケルシーの母校マウント・ホリヨーク大学とシンシナティー美術館に保管されている。

須藤と阿部は優秀な成績でシンシナティー女子医大を1896年3月に卒業し、ホームズ病院で眼科の研修を終了した。1897年10月に二人はケルシーと共にアメリカを出航して、11月4日に横浜に戻った。


横浜婦人慈善会病院

日本では、1900年まで女性が入学できる正式な医学校はなく、医者になるには、医術予備校に通い、医術開業試験に合格するか、外国の医学校を卒業する必要があった。須藤らは帰国後すぐに医籍申請をしたが、なかなか許可がおりなかった。そこでケルシーはアメリカ国務大臣や駐日アメリカ大使に訴え、翌年の1898年3月、二人はようやく医籍登録することができた。登録番号は、阿部ハナ:54、須藤かく:55であった。

横浜婦人慈善会病院(1905年頃)(『後援事業と慈恵施設』内務省、明治40年)

この時すでに横浜では、かくの横浜共立女学校の同級生二宮わかと、シカゴ女子医大を1889年に卒業した菱川やす(医籍:19)が、貧者のための横浜婦人慈善会病院(根岸病院)を1892年8月に開設していた。ケルシー、須藤、阿部の3人は、京都に移った菱川に代わって根岸病院で働き始めた。

根岸病院は、当初、慈善婦人会の寄付をもって運営していたが、1900年頃から次第に経営が行き詰まってきた。さらに理事長にキリスト信徒以外の人がついたため、医療と伝道を目的としていたケルシーらと対立するようになった。またケルシーや須藤らが身に着けたアメリカ医療、ことに電気療法やハーブなどを用いた折衷医学(Ecletic medicine)は、ドイツ医学教育を受けた院長、廣瀬佐太郎から否定され、医療方針も対立した。

アデリン・ケルシー (Mount Holyoke College Digital collections, Utica NY Saturday Globe, 1922年2月21日)

こうした中、ケルシーは、中国の義和団事件で負傷した宣教師の治療や貧困家庭の世話をしていたが、次第に“宣教医”という存在自体が時代遅れとなった。貧者のための医療という高い使命感を持って活動しても、伝道協会から援助が得られず、また地元医師会からも異端視され、協力が得られず、次第に日本での医療活動に疲弊した。もともと体調に不安があったケルシーは、須藤、阿部という若い後継者もできたので、そろそろ引退しようと考え、アメリカへの帰国を決意する。

須藤と阿部にとってケルシーは恩師であると同時に、”companion”という信仰に結びついた深い仲間であったので、ケルシーがアメリカ帰国を決意すると、根岸病院の関係者らの強い引き止めにもかかわらずに、一緒にアメリカへ渡航することにした。1902年、須藤は、ケルシーと阿部と共に日本での活動を終了して再びアメリカの地を踏んだ。


アメリカでの生活

1902年、3人がアメリカへ渡った時、他には三人の日本人が一緒だった。かくの妹まゆの嫁ぎ先成田ヨソキチ(Yosokichi)37歳、と子供達、長女マヤ15歳、長男コーイチ10歳であった。カムデンのケルシーの父の農場を手伝うためにヨソキチ一家を呼び寄せたが、須藤にとっては妹の子供たちをアメリカで教育したいという気持ちも強かった。ヨソキチには、他に3人の娘次女カツ(ジーン)、三女レン、四女スエがいたが、まだ小さかったので、母と一緒に日本に残った。

1907年、ケルシーと阿部が日本を訪れ、ヨソキチの残りの家族を連れてこようとする。しかし母親まゆはシアトルでトラコーマと診断され、伝染性があるため入国を拒絶され、子供を残してそのまま日本に帰国させられた。まゆは二度と子供達に会うことなく亡くなった。

カムデンではあたかもひとつの家族のように生活を共にした。信仰深い静かな家庭で、近隣の子供達を教育し、病人がいれば治療をした。ところが、以前から体調を崩していた阿部はなが、1911年2月に結核のために44歳で亡くなった。30年間、常に生活を一緒に共にしてきた仲間を失ったのは須藤らにとって辛いことだった。

1922年、ケルシーはカムデンの農地を売り、須藤やヨソキチと共に気候の暖かいフロリダ州セント・クラウドに移り住んだ。ケルシーはここで1931年、87歳で亡くなり、さらにヨソキチも1946年に81歳で亡くなった。

アメリカの市民権をとったときの須藤かく(92歳)。一緒にいるのは吉田源五郎とカツ(『The Orlando Sentinel』1953年7月8日)

その後須藤かくは、1939年には「アメリカ市民ではない」という理由で、30年以上アメリカに住みながら、年金受給を停止された。こうしたくやしい思いもしたが、仕方ないとあきらめ、地元の教会活動に熱心に参加した。須藤の長年の夢であったアメリカ市民権をようやく得たのは、1953年7月、92歳のときであった。彼女のアメリカ市民権を得る前、その思いを次のように述べている。

私はいつもアメリカ人と一緒に生きてきました。日本にいた時も子供のころからそうでした。私はアメリカ人が好きです。彼らの生き方が好きです。自分の国の人たちよりもずっと近く感じます。人生のほとんどをアメリカで過ごしてきました、でもまだ私はアメリカ人ではありません。... 私が唯一残念に思っているのは、アメリカ人ではないということです。私は自分がアメリカ人のように感じ、アメリカに住んでいます。この国が大好きなんです。ここが私のホームです。私の甥はこの国に命を捧げました1。私の唯一の願いは、アメリカ人として死ぬことです。 (『The Orland Sentinel』1952年4月16日)

日本人でいち早くアメリカ市民権を得たひとりである。須藤かくは、ヨソキチの次女カツとその夫、吉田源五郎の世話をうけながら、1963年6月4日に静かに息を引き取った。102歳の生涯であった。

* * * * *

広瀬寿秀『須藤かくー日系アメリカ人最初の女医ー』(北方新社、2017)

武士の娘、須藤かくが生まれたのは幕末の時代であり、当時の女子教育は寺小屋での読み書きが中心であった。10歳で上京し、英語を学び、30歳で海外に留学し、医大を卒業したのが35歳であった。明治時代の青森と横浜、横浜とアメリカの距離は今では考えられないほど大きい。さらに10歳というのはいかにも若すぎるし、逆に20歳で結婚するのが普通であった時代に30歳になって留学するというのも普通ではない。さらに当時は、女性の人権がほとんどなく、米国では人種的偏見も強かった。ケルシーらの援助があったとはいえ、決して経済的に恵まれた状況ではない。英語による医学授業は難しかったろう。こうした距離、年齢、性別、人種、語学、経済力などのハンディーは、今日でも大きな壁であるにもかかわらず、明治維新、太平洋戦争という二つの時代の波をも乗り越えたかくの行動力には驚かされる。

一方、当時の女性としては最高の教育を受け、医師、教育者として日本での活躍が期待されながらも、恩師ケルシーの帰国、引退の際には、一緒にアメリカに行くことを決意し、その後も一生日本に帰国することなく、ケルシーの最後を看取った。こうした潔さと思いやりは心打たれる。

須藤かくは、日本での生活、仕事の期間が短かったことから、地元、青森県でもほとんど知られていない女性である。今回、アメリカの新聞記事と日本の資料を併せて、かくの生涯を追うことができた。彼女の生涯を考えてみると、信仰心をもって、時代に立ち向かった強い女性像を見出すことができる。須藤かくは自立した、活動的な現代女性のパイオニア的な存在ともいえるだろう。

注釈:

1. 姪の息子ケンジロウ・ヨシダのこと。ケンジロウは、戦時中、442連隊に配属され、1944年イタリア戦線で戦死した。

 

© 2021 Toshihide Hirose

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