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須藤かく —日系アメリカ人最初の女医— 第1部

『大和コロニー フロリダに「日本」を残した男たち』などの優れたノンフィクション作品で有名な作家、川井龍介さんから突然のメールをもらったのは2011年10月のことだった。

「現在、アメリカ、フロリダの日系移民の歴史を調べていますが、フロリダのセント・クラウドで1963年に102歳で亡くなった日系人でKaku Sudoという人物がいます。青森県弘前市出身で、死亡診断書によれば父親の名はTsuiji Sudo、母親の名はYeuri Fujitaだそうですが、何か情報はないでしょうか」。

「わかりませんが、もう少し調べてみます」と答えてはみたものの、情報があまりに少なく、途方にくれた。

取りあえず“Kaku Sudo”を、弘前に多い姓”須藤かく“と解釈して、検索すると佐藤幸一著、「安斉丸船将 須藤勝五郎の生涯 弘前藩士の信仰の軌跡 」という本が唯一、ヒットした。幕末、弘前藩が所有する西洋船、安斉丸の船長として活躍した須藤勝五郎の生涯を描いた薄い本であるが、勝五郎の姪として須藤かくの名が登場する。ただ記載はわずかで、横浜に上京した時点でかくの名はなくなる。その後、”Kaku Sudo”のキイワードで主としてアメリカの古い新聞記事を中心に調べて行くと、アメリカ生活がおぼろげながら判明し、ここで初めて弘前とアメリカが繋がった。須藤かくは、アメリカで活躍した最初の日本人女医であることがわかった。

須藤本家のあった弘前市若党町武家屋敷


須藤かくの家族構成

須藤かくは1861年1月26日、青森県弘前市の弘前城近くの大浦町小路で父須藤新吉郎と母うりの間に長女として生まれた。須藤家は弘前藩三代藩主、津軽信義(治世1631-1655)に仕えた須藤長左衛門を祖として、幕末はかくの叔父、須藤勝五郎が当主であった。須藤勝五郎、名は茂則、御馬廻番頭格、高百石の中級武士で、父、熊三郎は塚原卜伝流の剣術の使い手であり、勝五郎も文武両面に優れ、弘前藩の西洋式帆船安斉丸の船長として、野辺地戦争、箱館戦争で活躍した。

かくの父、新吉郎(1831年生まれ)は、幕末の人材登用により、兄勝五郎の住む若党町とは別に大浦町小路に分家した。1868年11月に野辺地戦争に参戦し、その後 北海道の函館に派遣され、そこで西洋土木工学の新知識を習得した。維新後は青森県庁の役人となり、民政局庶務掛少属として青森の町づくりに参画する。明治に入り、名前を序(ついで、ついじ)と改名した。妻としてうり(旧姓:藤田)を迎えた。長男(名は不明)と、長女かく、次女まゆをもうけるが、長男は早逝してしまう。
 

横浜共立女学校

新吉郎は明治の早い時期に函館で西洋知識に接し、新しい時代にはこうした学問が子供に必要と考えていた。 シンシナティーの新聞記事(『Cincinnati Enquirer』 1895年3月3日)には、下記のように記されていた。

「ミス須藤の父親は、青森の山中の小さな村から、一人息子を教育の機会に恵まれた東京に行かせようとした。そしてまだ10歳だったミス須藤は、自分も一緒に行って勉強したいと父親に嘆願した。この旅は、502マイルにおよぶ大変難儀なもので、男たちが担ぐ籠にのり、その後は船に乗らなければならなかった。父親は娘をこんな大変な旅には行かせたくなかったが、結局はかわいい娘の希望を認めることにした。しかし、東京に到着したものの、女子は学校で勉強できないことを知り、失望することになった。偶然、二人のアメリカ人が横浜で女学校を開設していることを聞き、入学を許され、ミス須藤は大変うれしく思った」。

開設当時の横浜共立女学校(『横浜共立学園の140年』より)

かくが入学した横浜共立女学校は、同郷の本多庸一(キリスト教伝道者、教育者)に横浜で英語を教えたジェームス・バラが、アメリカより三名の米国婦人一致外国伝道協会(WUMS)の女性宣教師、メアリー・ブライアン、ルイーズ・ピアソン、ジュリア・クロスビーを招聘して作った学校であった。

「向学心の盛んな女史(かく)は学校に入りたいと思っても東京に女子の学校がなかったので、男装して中学校に入学した。それがある所で性別がばれて、退校させられた。それから横浜にあるアメリカのミッションスクールに入り、ケルシー女宣教師について普通学のほか医学を学んだ」(笹森順造、『青森県海外移住史』)

明治4年(1871)ころに、かくは兄と共に上京し、おそらくは本多の勧めもあり、翌年10月に二期生として横浜共立女学校に入学したとある(「思い出を語る」 小島清子、『横浜共立学園六十年史』より)。ここでの授業はほとんど英語で行われ、聖書、音楽、英語、国語、数学、地理、歴史、倫理学などを寄宿生活しながら学んだ。

当時の女子教育は寺小屋での読み書きが中心であった。青森で、ようやく小学校ができたのが1873年であることを考えると、1871年に津軽の女の子がわずか10歳で自分の意思により上京し、英語を学ぼうと考えたのは、極めて先進的な行動である。


宣教医アデリン・ケルシーとの出会い

渡米直後の写真、ニューヨーク州、フェアーポートにて。(左から) アデリン・ケルシー、須藤かく、阿部はな (横浜開港資料館所蔵)

横浜共立女学校の宣教医アデリン・ケルシーは、ニューヨーク州、カムデンで150エーカーの農園を持つ熱心なキリスト教徒の名家の娘として1844年2月26日に生まれた。1868年にマウント・ホリヨーク大学、1876年にニューヨーク女子医学校を卒業し、1878年に中国、通州に宣教活動のために派遣されたが、体をこわし、一旦、アメリカに帰国した。その後、体調が回復したので、1885年12月に横浜に来た。校医をしながら、近隣の病人のもとに往診し、年間1000名以上の患者をみた。彼女は優秀な日本の生徒をアメリカで教育し、女医にさせようと計画し、選ばれたのが須藤かくとその後も須藤と活動を共にする阿部はな1であった。

渡米前に、ケルシーがかくと青森を訪れたことがシンシナティーの新聞(『Cincinnati Enquirer』 1895年3月3日)に掲載された。

ある休暇に、ケルシーはミス須藤と共に、彼女の故郷である青森を訪れた。

ケルシーは山中に住んでいる年老いた須藤の両親から、あまり暖かい歓迎を受けなかった。彼らはあまり外人を見たことがなく、偏見をもっていた。ケルシーは居間には入れてもらえず、一人、慇懃に別の掃除が行き届いた部屋に通された。

ケルシーのキリスト教への信仰が、彼らの嫌悪の理由であったが、彼女の人柄に触れるにつれて次第に親戚達の見方は変わっていった。ケルシーはニューヨーク、ウェストデールにいる彼女の父親から手紙を預かっていたので、それをミス須藤に渡し、彼女が父親に訳して話した。

父親は熱心に聞き、ケルシー親子の愛情を知り、うれしく思ったし、大変驚いた。彼は感謝を示したいと、ケルシーの父親にプレゼントを送った。というのも外人が自分の娘をそれほど愛するとは思っていなかったからである。

このプレゼントは彼の所有するものの中では最も価値のあるもの――350年前から彼の曾祖父、祖父、父もが代々帯刀していた古い刀であった。

もし彼の息子が生きていたら手放すことはなかったが、すでに受け継ぐものはなかった。

そしてかくは父からアメリカ行きの許可をもらった。しかしこれが、かくの両親との最後の対面であり、102歳で生涯を終えるまで、一度も弘前へは戻らなかった。

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注釈:

1. 阿部はなは、1866年ころに、阿部定右衛門の長女として東京府で生まれ、横浜共立女学校を1886年に卒業した。

 

© 2021 Toshihide Hirose

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