フロリダで車を売ろうとしたが
加藤新一の親族を探していた私は、2020年3月広島市東区戸坂千足というところで、運よく彼の甥にあたる吉田順治さんに巡り合うことができた。建設業を営んでいた吉田さんは、加藤の妹、春江さんの長男にあたり、加藤のことを「おじさん」と呼び、親しい関係にあったことがわかった。
偶然の訪問にもかかわらず、時間があるということで話を聞かせてもらえることになった吉田さんに、私はフロリダの日本人移民秘話をノンフィクションにまとめたことや、日系アメリカ人文学の金字塔であるジョン・オカダの「ノーノー・ボーイ」の翻訳を手掛けたことなど、日系アメリカ人に関する取材を長年してきたことを説明し、そのなかで加藤新一がまとめた「米國日系人百年史」に出合ったことから、加藤という人物に興味をもって調べていることを伝えた。
日本人移民1世の記録をまとめるため全米を駆け回ったこと、そしてジャーナリズムの世界に身を置き、原爆で弟、妹を亡くしながらも独自な平和運動に邁進していたことを、興味の理由としてあげた。そうした前段の説明を終えると、まず、なによりもまず知りたかった、彼が「全米を車で走り回ったこと」について尋ねた。
「なにか、聞いていませんでしょうか。どのように回ったとか、記録のようなものは残っていませんか」と。
すると吉田さんは、即座にこう答えた。
「あー、それは確かに回っていましたよ。カリフォルニアから日系人のところを一軒一軒回っていったそうですよ。フロリダで車を売ろうとしたけれど、スノータイヤをはいていたんで売れなかった、と言ってました。……ひとりで回って車一台潰したとも言ってました」
やはり、カリフォルニアから遠く離れたフロリダをはじめ、アメリカ本土を車で駆け回っていたことは事実だった。それが確信できたことが嬉しかった。「車一台潰した」というのも、車を酷使するほどの取材旅行だったことが想像できた。
「アメリカ戻り」は顎が張る
次に知りたかったのが、加藤の人物像である。これまでの加藤の実家の周辺での取材からは、加藤がおおらかで人望のあるという評判だった。これについて吉田さんは、
「悪い評判は聞いたことがない。明るいし、とにかくものすごい行動力のある人だった。(平和運動に関しても)、東京に行って、議員会館を訪ねてチラシを配布したり、バイタリティーがあった」と、はっきり言う。
加藤は、当時にしては長身でがっちりした体つきで、顔もふっくらとし、豪放磊落な性格を形で表わしているようだった。吉田さんは、加藤の顔立ちについて面白いことを言う。
「顎が張っているんですが、それはアメリカに行っていて肉をよく食べるからだと、おじさんは言ってましたね。この辺じゃ、アメリカに行っていた人がけっこういて、“アメリカ戻り”と呼んでました。みんな顎が張っているんですよ」
加藤は、妹である吉田さんの母親、春江さんとは20歳ほど歳が離れていた。加藤自身は、1900年に広島で生まれたが、春江さんは父親の松次郎が渡米している間に生まれた。その後日本に帰国するが、長い間二重国籍のままで、晩年になって渡米する際にアメリカ国籍を放棄したという。
吉田さんは、昭和17(1942)年1月に広島で生まれた。加藤はその前年の1942年6月、第一次日米交換船で帰国しているので、甥の誕生は知っていて、加藤は吉田さんのことをかわいがっていたという。しかし、幼いころのことは吉田さんは覚えていない。
その後、加藤は再びアメリカに渡り、新聞記者をするなどし、1961年に米國日系人百年史をまとめるが、そのころ吉田さんは東京でしばしま加藤に会った。というのも、百年史は、発行はロサンゼルスだが、印刷は東京の大日本印刷で行うことになっていたので、最後は、1500ページ近くもある本の膨大な校閲作業やその確認のためだろう、加藤は東京へ出向いていた。
「大日本印刷のなかに部屋をあてがわれていたようで、そこでおじさんは仕事をしていました。ぼくは同時学生で東京にいたので、『おい、うなぎ食いに行こう』なんて誘われ、めしを御馳走になったものでした」
と、吉田さんは懐かしそうに言う。
死ぬときは故郷で
この仕事が終わり、加藤はロサンゼルスに戻り、吉田さんも郷里の広島に戻り家業を継いだ。それからかなり経って、あるとき加藤がその広島に戻ってきた。
「オジサンが70歳くらいの時だとおもうけど、突然帰ってきたんです。アメリカで死んだら、魂がどうなるのかと思ったといい、生まれたところの近くで死にたいということでした。アメリカで年金をかけていたようで、それで日本で暮らせるようでした」
日米を股にかけて活動してきた加藤のような人は、「人間至る処青山あり」と、どこに骨を埋めてもいい覚悟のようにも思えるが、終の住処は故郷と思い至ったようだ。
「帰ってきたときは、日本では見たこともないようなでっかいテレビを持ち帰ってきました。それが電圧があわなかったり、映っても画像が荒かった」と、吉田さんは笑う。
移住者がアメリカから帰ってきたとき、物質的に豊かなアメリカからさまざまなものを持ち帰る、あるいはアメリカ式の家を建てるのはよくあることだった。
「アメリカに移民し、ホテル事業で成功した人が広島で家を建てるので、うちで請け負ったことがありました。建設途中で見に来た本人が、車が出入りする場所を見て、『これじゃキャデラックが入らないから直してくれ』といってましたよ」と、吉田さんは笑う。
アメリカであれほど車を運転していた加藤だが、広島に帰ってきてからは高齢ということもあるのだろうか、車は運転せず、いつも自転車に原動機のついたようなバイクに乗っていたという。釣りが趣味で、でかけたい時はよく吉田さんに車で連れて行ってくれと頼んできた。
「海が中心で、瀬戸内海へ行きましたが、山の方にも行くことがありました」と、吉田さんは思い出す。
広島に帰ってきてからは、加藤は平和活動に邁進していた。精力的に、かつ自由に動き回っていた。しかし、その活動の途上、突然81歳で生涯を閉じた。その時のことは吉田さんはよく覚えている。
(一部敬称略)
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