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16世紀に南米へ来た日本人奴隷とユダヤ教徒 - その2

奴隷船の内部(Johann Moritz Rugendas / Public domain)

その1を読む >>

亜国日本人青年の所有者も新キリスト教徒

振り返って、コラム子の連載《日本人奴隷の謎を追って》で主題にした、1596年にアルゼンチンで奴隷売買された日本人青年の所有者も「新キリスト教徒」だった可能性が高い。

この件を最初に詳しく書いたアルゼンチン移民の大城徹三氏は著書『コルドバ』で、「さてフランシスコ・ハポンという日本青年は、当時日本との貿易が頻繁に行われていた南蛮人(ポルトガル人)によって連れられてきたことが濃厚に示されている。また正式なスペインの航路を通らず、ブエノス・アイレス港に入ってきたと推測できる。ということはスペイン国法に照らし、奴隷に処せられる条件になかった」(15頁)と書いている。

大城氏が〝奴隷商人〟と表現するポルトガル人商人の名は「ディエゴ・ロッペス・デ・リスボア」(Diego Lópes de Lisboa)。調べてみると、ディエゴはかなりの有名人だった。

スペインでは1478年に異端審問が開始され、1492年にはユダヤ教徒が追放されるにいたった。それに続いてポルトガルでも1497年に強制改宗令、1536年に異端審問が始まり、新キリスト教徒が急増することになる。

『ポルトガル史』(アルベール―アラン・ブールドン、白水社、1979年、59~60頁)には《教皇庁の黙認の意図にもかかわらず、国家の宗教裁判所が一五三六年につくられ、密告制度や秘密裁判や焚刑の恐怖によって絶対的な力をふるうに至った。(中略)宗教裁判所の所業はひとが想像するほど血なまぐさいものではなかったが、それでも一四五四人の犠牲者(二世紀間に記録された二万四五二二件の裁判について)の数は秘密、密告、暴力などのように、個人の自由を犯し、文芸や科学を沈滞させた当時の世情を考えると少なすぎる感じがする》とある。

つまり、イベリア半島でユダヤ迫害が強まる時期に大航海時代が始まっていた。ヨーロッパで宗教的な圧迫が強まる中、新キリスト教徒の一定部分は率先して、監視の少ない新大陸へ移って行った。そんなポルトガル移民商人の一人が、ディエゴ・ロッペス・デ・リスボアだった。


異端審問で焼き殺されたディエゴの父親

ディエゴの息子ファン・ロドリゲス・デ・レオン・ピネロ(1590―1644)はリマのサンマルコス大学で神学を勉強し、ユダヤ系出自で司祭になった人物として有名だ。彼の経歴を見ると、父方の祖父(つまりディエゴの父)ファン・ロペス・デ・モレイラは1604年に異端審問でその出自を問題にされ、リスボンにおいて公衆の面前で焼き殺された。

つまり、アルゼンチンで日本人フランシスコ・ハポンを所有していたディエゴ。その父親は、異端審問で焼き殺された隠れユダヤ教徒だった。

さらにチリ大学ユダヤ研究センターの研究冊子『La Palabra Israelita VIERNES 7 DE ENERO DE 2005』(訳=イスラエルの言葉、2005年1月7日号)12頁には、ディエゴ自身もユダヤ教的なふるまいをしているとの疑いが常々持たれていたと書かれている。そのため、ディエゴは自ら神学を勉強し、1628年には神父の資格をとり、新キリスト教徒との疑惑を晴らすことに務めていたとある。

チリ大学の『Los «Portugueses» en el Nuevo Mundo(新世界の〝ポルトガル人〟たち)』(Cuaderno Judaico nO 23) にも、このような家族の記述がある。

《ポルトガル人〝新キリスト教徒〟のディエコ・ロペスは、ユダヤ教徒として焼き殺された父の二の舞を避けるために、家族でスペインに逃げたが、ちょうどイベリア半島の二王国統一のタイミングだった。異端審問から逃げるための様にみえるが、ディエゴ・ロペスはインドに向けて出発し、初めはブラジルを通り、後にその先のラ・プラタまで行き、そのブエノス・アイレスで1594年に居を定めた。翌年コルドバに転居し、そこで数年を過ごした。1604年に家族をブエノス・アイレスに呼び寄せ、マドリッドの王家からの信用状を手にした「血の純化」信者証明書により、1603年にブエノス・アイレスでの異端審問も無事に通過することができた》

ユダヤ教徒だと疑われるだけで身の危険を感じる時代だった。フランシスコ・ハポンが神父に売られた年は、ディエゴがコルドバにきた翌年だ。


それならブラジルにも?

フランシスコ・ハポンは新キリスト教徒のポルトガル人商人の手により、アルゼンチンまで連れてこられた。この商人は、アルゼンチンの前にブラジルにも住んでいた。アルゼンチンに他にも同じような日本人がいた可能性が高いし、同じような動機やルートで、ブラジルにきていた日本人青年もいても不思議はない。むしろ「いた」と考える方が合理的ではないか。 

16世紀後半、ブラジルのバイーアやペルナンブッコでは、サトウキビ栽培と砂糖工場が大規模に経営されるようになり、大資本をもった貴族や金持ちがやってきていた。その中には、ポルトガルやスペインから迫害を免れた「新キリスト教徒」が大勢混じっていたことはよく知られている。彼らの使用人の中に、もしかしたら日本人奴隷がいたかもしれない。

あるブラジル人歴史家に相談したら『Serafim Leite -Historia de Companhia de Jesuita no Brasil』を紹介された。ポルトガル人イエズス会士の歴史家セラフィン・レイチ神父(1890―1969)の著作で、1538年から1563年の間に、ブラジルのイエズス会神父と本国のイエズス会の間でやり取りされた書簡集および、そこからひもといたブラジルにおけるイエズス会の歴史を書いた大作だ。

一部しかのぞいていないが、興味深い内容があった。イエズス会士が1549年に来る以前から、ブラジルには植民者が持ち込んだ黒人奴隷が働いており、「一人の黒人奴隷は、インディオ4人分の働きをすると住民は考えている」「1528年以前だけで4500人の黒人奴隷が運び込まれていた」「アフリカ人奴隷が不足したとき東洋系人種、インド人、モロッコ人をリスボンに送った」(第1巻333ページ)などとも書かれている。東洋系の奴隷がブラジルにもいた可能性は捨てきれない。

『Serafim Leite – Historia de Companhia de Jesuita no Brasil』333ページ「アフリカ人奴隷が不足したとき、東洋系人種、インド人、モロッコ人をリスボンに送った」という一節

更に、初期のブラジル植民地には布教師と少数の植民者しかいなかったことから「女性がたりない。孤児をもっと送ってほしい」などの要請が書かれていた部分もあり、リスボンから日本人奴隷の孤児が送られた可能性もないとはいえない。

「1600年前後にブラジルにも、日本人奴隷が連れてこられていた可能性」を調べる研究者に出てきてほしい。

 

* 本稿は、『ニッケイ新聞』(2020年10月20日)からの転載です。

 

© 2020 Masayuki Fukasawa / Nikkey Shimbun

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