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アルバム「介護記憶曲集」-あるカナディアン・ジャパニーズ一家の「記憶」が住む家-

日本語の動詞「すむ」は3つの意味を持っている。「住む(TO LIVE)」、「澄む(TO BECOME CLEAR)」、そして「済む(TO FINISH)」である。この3つの動詞は語源的には一つの動詞から派生して生まれた。3つの動詞を並べてみると、過去・現在・未来という一つの時間の流れが見えてくる。それは「動態」から「静止」へと緩やかに下降してゆく。ある場所に住み、心が澄み、そして人生が済むのである。人はこれを「大往生」と呼ぶ。

キャスリーン・ゴーリング

2019年7月、94歳で逝去したカナダ人のキャスリーン・ゴーリングはかくしてトロントで多くの人に惜しまれながら大往生を遂げた。だが、彼女の徐々に衰える姿を身近に感じ、介護し続けた孫・博基には複雑な思いが渦巻いていた。そこで、ミュージシャンの博基は彼の心の思いを解きほぐし、言葉を与えメロディに乗せて一枚のアルバムにした。

タイトルは「介護記憶曲集*」。「回想曲」ではなく「記憶曲」としたのには理由がありそうだ。「回想」に伴う美化や「懐かしむ」姿勢はそこにはない。その代わりに、生々しく時に痛々しい「記憶」の断片が詰まっている。日本の童謡を歌う高齢者施設のシニアたちの合唱、台所の鳩時計の音、流し台に落ちる水滴、皿が重なり合う音、幾度となくホーム・ディナーが始まる前に鳴らされたドラの音。さまざまな生活音が混ざり合っている。

さらに、博基の叔母でハープ奏者のジャクリーンが演奏する賛美歌「Let All Mortal Flesh Keep Silence」も挿入されている。博基の祖父ビンセント・ゴーリング牧師は1980年代から1990年まで、トロントのセントバーナバス教会の司祭だったが、博基は教会堂に広がるこの賛美歌を聞いて育った。そういった数世代にわたる「家の記憶」が刻まれたアルバムである。

バンド Yamantaka // Sonic Titan で7弦ギターを弾く田中博基

1988年、トロントのアッパー・ビーチ地区の小さな家で、博基は生まれた。母デアドリはキャスリーンの長女で日英語の通訳として働き、父、つまり私はカナダ在住のライターである。その後、祖父母がこの家で晩年を過ごした。2009年に夫ビンセントに先立たれた後、妻キャスリーンも静かに衰弱していった。祖母が動けなくなるまでの介護役は孫娘そのみ、彼女の弟の博基へと数人にバトンタッチされていった。その家には、ある家族の3世代にわたる時間が住んでいたのだ。そして、ミュージシャン田中博基は、その売りに出された空き家と彼の心の「虚しさ」を、内から湧いてきた言葉と音楽で満たしてアルバムにした。

その孫・博基は、私の子供でもある。いま、父として、義理の母への鎮魂歌を創作し永遠に残してくれた息子・博基を誇りに思い、深く感謝している。

いま振り返ると、義母キャスリーンの愛する者への慈悲深さと寛大さは、揺るぎない信仰に基づくものだった。20年ほど前、私が離婚を決意した時に、「何があっても、あなたは私の息子です」と抱きしめてくれた。彼女の一言があって僕は新たな一歩を踏み出すことができた。


カナダ人宣教師たち

カナダ聖公会が宣教師を日本に派遣し始めたのは1888年、名古屋へのそれを嚆矢としている。1913年には神戸にカナディアン・アカデミーを開校した。1916年、新潟県高田(現・上越市)へ宣教師として派遣されたパーシバル・パウルス牧師とルース夫妻は、そこに教会を建て、5人の子供を通信教育で育てた。

1932年、カナダ聖公会は今日の金額にして20億円を投じて、急増する結核感染に備えて長野県小布施に新生サナトリウムを建設した。パーシバル・パウルス牧師はこの療養所の運営に深く関与した。1968年、この療養所は結核患者の減少にともない、新生病院と名を変えて現在に至っている。

同じくカナダから派遣された宣教師にノーマン一家がいた。両家は毎年夏の休暇を野尻湖畔で一緒に楽しんでいたという。ノーマン家の次男ハーバートは、第二次大戦後にカナダ外交官となり、GHQでマッカーサー元帥が最も信頼するアドバイザーとして働いた。

そのハーバートと野尻湖で一緒に遊んだ仲のパウルス家の長男セロ(Cyril) は、長じて神学者となり第二次大戦後に日本に戻り、宣教師として教会で奉仕した。のちに、彼はトロント大学トリニティ・カレッジのディーン(学部長)としてキャリアを終えている。彼はアジアにおけるキリスト教会史の専門家であり、カナダにおける日本学の祖でもあり、恒例のオンタリオ州日本語弁論大会ではよく審査委員長を務めていた。


宣教師の娘

ここで紹介するパウルス家の次女のキャスリーン(Kathleen)は1924年に新潟県高田市で生まれ、13歳まで日本で育った。1937年にカナダに戻り、ケベック州モントリオールのマギル大学でラテン語を専攻した。第二次大戦中、日本語に流暢なパウルス家は、西部の強制収容所から再移動してきた日系カナダ人たちをモントリオール駅で出迎え、彼らに住居と仕事の世話をした。

私が日系ボイスの記者として1995年に日系人会議のためにモントリオールを訪ねた時、「パウルス家をご存知ですか」と尋ねた途端に、地元の日系人シニアたちに囲まれて驚いたことがある。そして、一人一人が懐かしそうにパウルス家のことを語ってくれた。当然かもしれない。これら日系人が不安に怯えながらフランス語圏のモントリオール駅に到着した時、微笑みながら日本語で話しかけて安心させてくれた白人たちがいたのだから。

当時のパウルス家の居間は、いつも日系人たちが出入りしていた。キャスリーンが兄ビルの軍服にアイロンをかけようとして手間取っていた時、ある日系人が「僕がやりましょうか。本職はドライクリーナーですから」といって手慣れた手つきであっという間に仕上げてくれたという。

キャスリーンは、マギル大学在学中に学生クリスチャン運動(SCM)で知り合ったビンセント・ゴーリングと結ばれた。そして、1963年、ゴーリング夫妻は幼い子供達をともなって、京都に宣教師として派遣されたのである。キャスリーンにとっては懐かしい日本への里帰りとなった。彼女の日本語能力がどんなに家族に安心感を与え、地元の人々との交流をスムーズにしたか計り知れない。日本聖公会の事務局長を務めた輿石勇牧師は、「キャスリーンには本当にお世話になりました」と懐かしそうに語ってくれた。

ある意味で、彼女ほど「伝統的な日本を感じさせる」人も珍しい。いつも控え目な装いで、人前で社交的に振る舞ったりする人ではなかった。一方で、とてつもなく頑固で自分の意見を曲げることもなかったようだ。夫ビンセントが苦笑いしていたのを覚えている。

キャスリーンは戦前の日本で13歳まで過ごし、戦争の兆しが見えた頃、家族はモントリールに戻ってきた。戦前の話の中で、彼女が顔を曇らせたのは、日本の警察が高田の彼らの住宅に押しかけて家宅捜査した時だった。あれほど怖い思いをしたことはなかったという。「彼らが入ってきた時、そこらじゅうに険悪な空気が充満していた」と語っていた。そして、彼女の母ルースと兄セロは、戦時中、日系人の収容所を巡り、日本語で話し合い手になり、健康状態などを調べて回ったという。セロは1980年代には日系リドレス運動を積極的に支援したことでも知られている。


家族3代が住んだ家

さて、人生は奇なものだと思う。私の息子・博基は成人してから自分の生まれたケント通りの家に戻り、祖母キャスリーンの介護をすることになったのである。1970年代、その家には、伯父ブライアンと彼の家族が住み、晩年にガンに冒された伯父は、その二階の部屋で亡くなった。

孫の博基を抱くキャスリーン、1988年(写真提供:田中家)

そして、私自身も家族とその家に1987年から2年ほど住んでいた。1988年4月15日、博基がその家の二階で自宅分娩で生まれた。産湯をつかった後、その部屋には家族や友人たちがキャンドル一本の点いたケーキを持って、「ハッピー・バースデー!」と歌いながら集った部屋である。

1989年、今度は、定年退職した祖父母がその家に移り住んだ。そして、2008年、祖父ビンセントが85歳で他界し、独居の祖母の介護を子供たち、さらに孫がするという役回りになったのだ。

実に40年近く亘り、3世代の時間がその家に刻まれたのである。その家は今では人に売られ、極めて斬新に改築されてしまったらしい。だが、梨の木が一本植わった小さな裏庭の一角には、博基の出産時の母体の胎盤が、地中深く眠り続けている。そのスポットが何処かを正確に知っているのは、今となってはその穴を掘った私だけだろうが…。

* * * * *

2020年1月に発表されたアルバム「介護記憶曲集」は、すでにいくつものメディアが取り上げ、ネット上でレビューを書いている。その中で、シアトルをベースとするウェブマガジン『EDEFINE』のVivian Hua(華婷婷)のレビューが特に目を引いた。そのレビューは、来週ディスカバーニッケイにて紹介する。

 

© 2021 Yusuke Tanaka

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