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一世の記録を拾い集めた男 ~加藤新一の足跡をたどって~

第22回 広島で平和運動に取り組むが…

知事に請われて県広報委員長にも

日米開戦後アメリカから日米交換船で郷里の広島に引き揚げてきた加藤新一は、中国新聞の記者となり、一時は編集局次長の職についた。その後同社に誕生した従業員組合の委員長(組合長)となるなど多方面で活躍したが、1949年、7年間つとめた同社を退社する。新聞社時代の先輩、村上哲夫氏によれば、当時の楠瀬常猪・広島県知事に請われて、初代の広島県広報委員会委員長に就任、1951年に知事が楠瀬から大原博夫に代わってからも一年余り広報委員長を務めたという。

加藤本人が「米國日系人百年史」のなかで書いた自分の経歴には、1949年に「広島県広報部長に就任」とある。被爆地広島県の知事が、加藤のような記者経験、アメリカでの経験、そして英語能力を持つ民間人を登用しての広報活動の内容は、平和問題が中心だろうことは想像に難くない。

では、どのような活動をしたのか、広島県庁に広報課をたずねてきいてみた。しかし、残念ながら加藤の名前や当時の県広報委員長の存在はまったく知られていなかった。過去の記録を調べてもらったところ、ようやく「昭和25年に広島県広報委員会嘱託として加藤新一さんを委員長に」という記録があった。また、同委員会は「知事直属の組織」だと確認できた。

これ以上のことはなにも記録に残ってないのでわからずじまいだった。このあとの加藤の平和運動への貢献を考えると、さびしいものだった。

昭和25年は1950年にあたり、加藤、村上のいう1949年とは異なるが、どちらが正しいのかはわからない。


日本国連協会広島県本部事務局長に

加藤を登用した楠瀬は、1950年参議院広島県選挙区の補欠選挙に自由党から立候補しして当選した。村上氏によれば、参議院議員となった楠瀬のあっせんで加藤は、「国連に籍を移したが、一身上の都合で昭和二八年三月にこれを辞任し、四月末に渡米した」とある。

広島県の広報委員長を辞めたことについては、加藤が亡くなったときの読売新聞には、経歴を紹介するなかで「一時県庁に入ったが肌に合わず再び渡米」と言い表わしている。これまでどおり、納得がいかなかったり、思うような仕事ができないときは、組織にこだわらずに、潔く去って行くという加藤の生き方がここにも表れている。

村上氏の言う「国連に籍を移した」というのは、本人がプロフィールにあげているように、日本国連協会広島県本部事務局長を指すようだ。

国連協会とは、公益財団法人日本国際連合協会(国連協会)のことで、どのような組織かというと、「民間の立場から国民の間に国連に対する理解と協力を増進し、世界の平和と人類の福祉向上に寄与することを目的として、1947年に設立。全国で各地に任意の支部組織があり、国際的には国連のA級諮問民間団体である国連協会世界連盟(WFUNA)の有力メンバーとして、国内的・国際的に積極的に国連普及活動を展開している」(同協会ホームページより)という。


世界がひとつの政府をもつ

ここから平和運動に実質的に関わりはじめた加藤は、「世界連邦運動」推進のために尽力しはじめた。戦争・原爆を体験、アメリカ社会と日本社会を知る加藤が、行きついた思想がこの世界連邦運動だった。加藤を知る上で重要な世界連邦運動について、「世界連邦運動協会(World Federalist Movement of Japan)」のホームページをもとにまとめると——。

まず、「世界連邦とは、世界の国々が互いに独立を保ちながら、地球規模の問題を扱う一つの民主的な政府(世界連邦政府)」である。

「各国の熱心な世界連邦主義者達は、1946年、ルクセンブルグに集まって、『世界連邦運動』(WFM)の前身である『世界政府のための世界運動』(WMWFG)を組織し、その第一回大会を、翌47年、スイスのモントルーで開いた。23カ国から51の団体代表が集まり、1全世界の諸国、諸民族を全部加盟させる。2世界的に共通な問題については、各国家の主権の一部を世界連邦政府に委譲する——などの6原則からなる『モントルー宣言』を発表した」

「世界連邦運動は、世界各国の科学者、政治家の支持を得て急速に発展。1947年、各国の世界連邦運動団体の国際組織として『世界連邦運動(WFM)』<本部ニューヨーク>が結成。現在、WFMは24の国と地域の加盟団体によって構成されている」

「WFMは国連経済社会理事会諮問 NGO カテゴリーII として国連に対して意見や助言を行っている」

日本でも、戦後、超党派の世界連邦日本国会委員会ができる。「国会の中にも『戦争のない世界を実現するため党派を超えて立ち上がろう』という動きが始まり、1949年12月20日、衆議院議長松岡駒吉氏を会長・参議院議員田中耕太郎氏らを副会長に104名の超党派の両院議員によって世界連邦日本国会委員会が結成された」  


世界連邦アジア会議、事務局長に

1952年11月、「世界連邦アジア会議」が広島で開かれることになった。イギリス国会議員世界連邦グループが、1950年に、原爆の落ちた広島で世界連邦会議を開いて全世界に平和の叫びをあげてはどうだろうか、という案を出したところ、日本の世界連邦運動推進者にも共感を呼び、「世界連邦建設同盟、世界連邦日本国会委員会、世界連邦広島協議会の共催で、広島でアジア会議が開かれることになった。

広島で開かれた世界連邦アジア会議(「世界連邦運動20年史」より)

そのとき、加藤は同会議の事務局長を務めることになった。そして、これをきっかけに加藤は広島を拠点に、平和運動に邁進していくのかと思われた。しかし、村上氏が記すように「一身上の都合で1953(昭和28)年3月、日本国連協会広島県本部事務局長を辞任し、4月末に渡米してしまう。

「一身上の都合」とはなんなのか、定かではない。加藤は再び活動の場をアメリカに移した。

(敬称一部略)

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© 2021 Ryusuke Kawai

Activism hiroshima peace movement United Nations

このシリーズについて

1960年前後全米を自動車で駆けめぐり、日本人移民一世の足跡を訪ね「米國日系人百年史~発展人士録」にまとめた加藤新一。広島出身でカリフォルニアへ渡り、太平洋戦争前後は日米で記者となった。自身は原爆の難を逃れながらも弟と妹を失い、晩年は平和運動に邁進。日米をまたにかけたその精力的な人生行路を追ってみる。

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